ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

東大は何処へ?

フェイスブックhttps://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)からの転載。但し、ブログ・アドレスは後に挿入した。

shared Satoshi Ikeuchi's post.

http://www.asahi.com/articles/ASJD554BTJD5UEHF00B.html
50歳で東大合格した主婦 かなえたかった「一族の夢」
2016年12月19日

「そのような大学像は、はるか昔の大学院重点化以後に大きく変化した大学の現場を知らず、大学の外の社会に広がる幻想をなぞっているだけ。」
「高学歴専業主婦が家庭内教育に時間と労力と熱意を投入したから可能だったある種の全人教育
「そのようなある意味で「バランスのいい」(「平均的」ともいえるが)人が大学生になり卒業して組織に入って安定的に形作ってきた社会は、男女雇用機会均等法(1986施行)、同改正(1999年施行)をへて、一流大学を出た女性が専業主婦にはならず、教育の多くを「外注」するようになってから、変わっている可能性がある。」
「以前よりも底が浅くひ弱なので、何か底力を補う教育をしないといけないのではないか、という観察が、かなり深刻に語られている。」
「「キラキラしていいね ⭐️」みたいな記事を量産するだけでなく」
(部分引用終)


こういう文章を、池内先生は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161125)どのような顔をして入力したのだろうか?

私は大学院重点化以前の大学院卒なのだが、この場合、どうなるのだろうか?
この方、私よりも歳上なんだ。
正直なところ、あまり好きではない記事。朝日好みだ。

(転載終)

大学や大学院以前に、小学校の授業時間数さえ私の世代の水準まで回復していない現状を、どう捉えるかだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161214)。
それなのに、世の中は「若い世代の柔軟な発想を」と持て囃し、研究費についても若手獲得資金のような範疇を作って、大盤振る舞いをしたのではなかったか?Stap細胞事件は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=Stap%BA%D9%CB%A6)、その氷山の一角ではなかったか?
狭い専門は詳しいかもしれないが、基本的な教養知識や一般常識が欠落しているような「若手」との会話を、私は十年ほど前まで、あちこちで繰り返してきた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)。

http://blogos.com/article/75569/


「大学院という学歴ロンダリング
2013年12月9日
新井克弥



1991年文科省は2000年までに大学院定員を倍増させ、わが国の研究者を養成する機関を充実させる、いわゆる大学院重点化を発表した。


・よく知られたポスドク問題、つまり大学院で博士号を取得した後も就職先がなく優秀な頭脳が放置されるという問題だが、もう少し俗っぽいところでも問題が起きている。


・今回取り上げる「学歴ロンダリング」という現象だ。ちなみに、これは文系の大学院で多く見られる現象だ。


・建前上では研究者を養成するところということになる。


実質的には中身がカラッポ的、つまり専門なんかちっとも身につかないといった側面も結構強い。



・まず大学。今や進学率は50%を越えているいうならばかつての高校進学率のレベル猫も杓子も大学へ行くわけで、こういった大衆化された大学では、専門的な知識の提供は、はっきり言って難しいし、実際ほとんどやっていない(だから、現在、大学はキャリア教育や就活支援に力を注いでいるわけで、これってまさに数十年前の高校の「生徒指導」「就職指導」状態)。


・大学の専門教育レベルの低下の下で文科省が大学院重点化をおこなった。


・顕著な重点化政策は、なんと「定員増」という場当たりな発想だった。しかし、定員の水増しはそのまま大学院生のレベル低下に反映される。



・こちらも発想がスカスカなのだけれど、彼らが感じた旨み、それこそが学歴ロンダリングだった。つまり、大幅に増加した大学院の定員によって学部時代だったら偏差値が高すぎて決して合格できそうもない大学名の大学院に入学可能になったのだ。


・実際、たいていは自分の所属する大学より学部レベルでは偏差値の高い大学の大学院に入学する。


・文系大学院での教育はスカスカ。そのあとの仕事に向けてのパスもない。つまり、大学院への進学は自分の将来を首を絞めるだけ


・「ブランドが功を奏するだろう。修士くらいで大学院を終えれば、最終学歴の高偏差値がモノを言うに違いない」と目論む(ちなみに、このお陰で低偏差値大学の文系大学院は限りなく「開店休業状態」に陥る。つまり存在価値が無いに等しい)。


・ダブついた大学院生が誕生してすでに20年が経過しようとしている。で、企業としてはとっくに「大学院」という存在に大した魅力を感じていない。だって、なんのスキルもないのだから。


・「大学院バブルの結果」、つまり簡単にそこに入ったことを知っている。だから、選考する側としては大学院名はスルーして学部名の方に目が行くのだ。


・大学院重点化がこんなかたちでいまだに運用されている状況は、そろそろ改めないとヤバいんじゃないんだろうか。


・追記:文系の大学院でも一部の人間には恩恵がある。修士を出ることで資格が与えられるような場合だ。(中略)共同研究室には看護士のおばちゃんが大学院生としてやってきていた。彼女たちの力量からすると論文が書けるという感じではなかったけれど(そしてそのことを自分たちもよく知っていた)、しっかり資格を取得して職場に帰って上級職に就いていったわけで、彼女たちの方がはるかにしたたかに大学院を利用していた。

(部分抜粋引用終)

偶然にしては驚くほど、今日の午前中、大学院の副指導教官でいらした故白井成雄先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C7%F2%B0%E6%C0%AE%CD%BA)の遺稿集が、奥様から届いた。先生の最初のお写真は、修了式でご一緒させていただいた時の写真のお姿と、殆どお変わりない。
大学院重点化前の院卒とはいえ、その下の世代と一緒に研究会や学会に出席すると、捻れたコメントや変な対応をされて不愉快なので、今では引っ込んでいる。