ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

1969年の学園紛争の余波は今も

メーリングリストから。

致知』2018年9月号
連載:村上 和雄(筑波大学名誉教授)「生命科学研究者からのメッセージ」p.112


京都大学に戻って助手に任命されると、満田先生のもとで仕事を手伝う日々が始まりました。それから瞬く間に3年の歳月が過ぎ去った1969年に訪れたのが、日本を揺るがした学園紛争です。


・事の発端は70年安保闘争に根差した政治闘争でしたが、いつしか大学改革運動の一端を担うようにもなっていったのです。学生を中心とした反乱の渦は、やがては研究者、助手、教授の一部をも巻き込み、大学を根底から揺り動かすようになりました。


京都大学でも学生寮教養学部から始まった闘争の火は、あっという間に全学部に広がると、学生たちはバリケードで大学構内を封鎖する事態に。


・学生たちの過激運動には際限がなく、教授の多くは学生たちの追及を避けようと逃げ回るばかり。そこで私は事態収拾の道を探るべく、発起人の一人となって助手、講師が教授を追及する会を開きました。


・ところが教授たちのほとんどは恐れをなして、集会には一向に顔を出しません。いま思えば無理からぬことでしたが、当時の私は、「それが責任ある立場の人が取る態度か」と無性に腹が立って仕方がなかった。


・私の性急な行動は同僚たちですら心配するほどで、ふと我に返ると私自身も自分の軽率さを悔い、自己嫌悪に陥りました。結局、それが契機で大学を辞めようと決意したのですが、その時に私の脳裏をかすめたのがオレゴン医科大学での充実した研究生活のひとコマでした。


・私は学生時代の先輩を頼って再びアメリカの地へと飛び立ったのです。向かった先はテネシー州ナッシュビルにあるバンダービルト大学医学部でした。


・実家から送られてきた新聞記事の見出しに私は驚きました。そこには「京都大学の教官逮捕さる」と書かれているではありませんか。それまで教官が逮捕されることはなかっただけに私の頭は混乱しました。しかも、逮捕された教官の中には、一緒に活動していた人間も含まれていたのですからなおさらです。


総長が全学部の教官と学生に対して校内からの退去命令を出したために、単に研究室にいただけで命令違反として捕まったと分かると、私は鳥肌が立つ思いでした。アメリカ行きを少しでも躊躇していたら、私も彼らと一緒に逮捕されていた可能性が十分にあったからに他なりません。


・まさに間一髪でしたが、こうした一連の出来事を通じて、私の覚悟が定まったのも確かでした。というのも、京都大学で助手として研究を続けていた当時、このまま大学に残るか、はたまた会社に勤めたほうがよいかと気持ちが揺らいでいたのです。それが再度の渡米を試みたことによって、研究者としてやっていこうという思いが固まったのでした。

(部分抜粋引用終)
当時の京大総長が教官を逮捕する命令ができたのに、なぜ今の京大にはリベラル左派が蔓延しているのだろうか。