ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人生いつでも未完成

昨日は、曇り空だったこともあり、なんだか疲れがまだ抜けませんでしたが、今日は明るい秋晴れだったため、たまった新聞の片付けや掃除や買い物や図書館通いなど、ようやく自分ペースが戻ってきました。
普段はいつでも家事ができるような格好で勉強しているので、久しぶりにスーツを着ると、おなか周りがきつく、締め付けたまま長時間過ごすことになります。そのために疲れが抜け切れにくいのかもしれません。サイズに合ったものを新調したいのですが、この頃はデパートでも、なかなか気に入ったデザインがなく、困っています。
まだまだ書きたいことはありますが、それもおいおい...。来月も発表があるので、その準備もしなければなりませんし。
今回の発表では、レジュメも予想以上にさばけたし、「わかりやすかった」「もっと続きが聞きたかった」「コピーとるの、大変だったんじゃないですか」などと好意的なコメントが多く、ほっと一安心でした。また、理事長を務められた先生から、帰りのバスを待っている間に、「おもしろい研究していますね」と言われました。
昨年「まだこれからですね」と醒めた表情でおっしゃった先生も、にこにこ顔で「そういうことをずっと研究してきたんですか」と、ようやく合点がいったという感じでした。私も「先生から、あのように言われたので、今回は、負けん気出してがんばりました。褒められない方が、かえって奮発するのでいいですね」と応じました。
本音を言えば、自分では(まだまだ序の口、これからが本領発揮だ)と思っているのです。発表の最中にも、あれこれ不備に気がつくので。
みのもんた先生は、「人生いつでも未完成」などと、いいことをおっしゃっていました。そうです、満足してしまったら、進歩がなく、停滞ないしは後退あるのみ。その時が一番こわいんじゃないかな。
とにかく、だんだん、この学会にもなじんできて、新しく知り合いになった方も増え、ありがたく思います。
「リベラル・アーツ」の議論は、聞いていてとても楽しかったのですが、いかんせん、東京の裕福な有名私学のお話を(いささか自慢げに)上からたまわっているような感じがなきにしもあらず。(でも、お金のない人はどうするのですか?)(東京が嫌いな場合は、どうしたらいいんでしょう?)などと、余計なことも考えてしまいました。
結局のところ、教養とは、大学が与えるものというよりは、一生涯、自覚して自分で身につけようと努めるしかないのではないでしょうか。実家では、家族全員、国公立しか行ったことがないので、どうもミッション系大学には、雰囲気の面で、まず敷居を感じてしまいますねぇ。というよりも、わざわざ地域コンプレックスを植え付けられる、というのか...。
私自身は、税金の学校で質素に、さまざまな考え方に容赦なくもまれながら過ごせてよかったと思っているのです。学部も大学院も、私の時代には少人数教育でした。2年間の教養科目があった上、学部1年の時から専門の演習も入っていました。国文科でしたが、英文科の授業も確か3つぐらい受けに行って、単位を取りました。入試の選抜が今よりは厳しかったので、勉強をがんばるのは当たり前。個性なんかで入学しようなんて、考えも及びませんでした。むしろ、通学途上に「行ってらっしゃい」などと声をかけてくださった大学近くのパン屋のおばさん達に申し訳なくて、税金泥棒にならないよう気をつけよう、いや、税金の元をとるぐらい大学を利用してやろう、と思っていました。
環境が調い過ぎるのも、どこか安住してしまうのではないでしょうか。

というわけで、帰りに立ち寄った吉祥寺の古本屋さんで、次のような本を買ってしまいました(一冊100円!)。
立花隆東大生はバカになったか:知的亡国論+現代教養論文藝春秋2001年

ここには、1997年になってから、学生の質の著しい低下が誰の目にも明らかになった、と書いてあります(p.8)。私の結婚した年ですから、時代背景としての雰囲気を覚えています。そして、ところどころ、書かれてある指摘に思い当たるところがあります。このブログにも、これまでいろいろと苦情を書きましたが、それが該当します。
まあ、私としては、自分もまだまだ教養が身についていないと毎日思っているので、この本を読んで刺激を受け、少しでも自分の向上に役立てたらと願っています。