ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

分をわきまえること (2)

旅の最終日に、電話一本かけただけなのに、わざわざMさんと長男のサンジーフ君とご主人の妹の息子であるいとこ君の三人が、私に会いにクアラルンプール国際空港まで来てくれた話は、既に書きました(参照:2009年10月16日・10月26日・10月28日付「ユーリの部屋」)。
このリサーチはそもそも自分の課題なので、何事も自分一人で済ませるつもりでいたのですが、そこは人なつこいマレーシア人のこと、何かと車を出してくれたり、会いに来てくれたり、家に招待してくれたりしました。もっとも、毎度ながら滞在期間中は、予定をどこまでこなせるか、常に時間との闘いですから、柔軟な対応で乗り切ることになります。一番うれしいのは、車で移動を助けてくれること。タクシーの方が、多少、時間がかかっても、車内でメモをとったり、風景を眺めたりできるので、これもリサーチの一環と捉えてはいますが、知り合いや友人が駅や次に向かうオフィスまで車に乗せてくれると、道に迷うこともなく、非常に助かります。
また、直接リサーチとは無関係だと思われたような人から、思いがけず、貴重な秘密情報があっさり会話の中で飛び出すこともあります。実は今回も、それがありました。偶然にしてはできすぎ、こちらとしても全く期待していなかっただけに、驚いています。ただその内容は、ブログで書くようなことではありませんので、いずれ何らかの正式な方法で示唆することになろうかと思います。
しかしながら、基本的な私のポリシーとして、友情をガツガツ自分のリサーチに援用するという‘はしたない’ことは、したくはありません。向こうが好意で付き合ってくれているのに何だかスパイみたいですし、そういうやり方では結局、自分にツケが回ってくることが目に見えているからです。
以前、若い院生で、学位取得期限が迫っているせいか、焦って、通常の人間関係の枠を超えて情報を取ろうとした人を見かけたことがあります。正直なところ、あまり好ましくは感じませんでした。例えば、私の経験した事例では、「どうして、あのムスリムがクリスチャンになりたがったのですか」などという質問があります。公になった話だとはいえ、こちらとしては、もちろん初めから知る由もありません。そういうことは、一般の社会常識として、正面切って聞くべきことではないとも思います。本当の内面の問題については、誰にもわからず、それこそ「神のみぞ知る」領域です。だから、「プライバシー」という言葉が存在するのです。
「学問」の名の下に、何事も許されるとは思いません。やはり、限界があることをわきまえていたいと思います。
数日前に送られてきた『ペシャワール会』101号(2009年10月21日)には、次にように書いてありました。

・「この事件から、『すべきこと以上に、してはいけないことを知ることが大切』という中村先生の言葉が身にしみました。」(p.10)
・「昨年、私たちの仲間の伊藤和也くんを失いました。しかし、敢えて報告の中では触れないことにします。人の言葉はあまりに貧しく、美談と対の底意地の悪い論評も同根です。彼をそのままに受け入れない奇妙な風潮が、彼の生死を侮辱し、現実から遊離するように思われるからです。どんな人の生命も尊く、かけがえのないものです。平和を観念に閉じ込めてはなりません。平和を語るのはたやすいけれど、実現するには戦争以上に忍耐と努力が要ります。現場は血まみれ汗まみれ。人の世界は塵まみれ。それでも示される一つの道があります。それに忠実な限り、大きくは過たないでしょう。」(p.5)

こういう文章を読むと、さすが、本物は違うなあ、と深い感慨を覚えます。