ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

もっとのびのび安心して...

昨晩は、ふと思い立って、これまで発表したレジュメに沿って、文章化を試みてみました。前にも書いたように、一生懸命やったつもりでも、たいしたことのない内容に時間とエネルギーを投入し過ぎたような感覚に襲われ、(こんなことをするために生まれてきたんじゃない)という気分に陥り、落胆します。だから、時間を置いてエネルギーを注入する必要があるわけです。私の場合、それが数年ということもありますし、数ヶ月あるいは数週間ということもあります。
本来、ストレスも何もなく、理解ある順当な安定した環境にさえあれば、もっと落ち着いてさっさと仕事ができるのだろうと思います。また、自分が過去に培ってきたことが生かされる環境にあれば、自尊心もここまでしたこま傷つく必要もなかったのかもしれません。
昨日、なぜこんな鬱屈した気分になって仕事が進まないのかと考えてみました。
1.完璧主義的傾向
物事は、完全にきちんとしていなければ、やっている意味はないのだという教育や指導を受けてきたこと。その影響下から未だ逃れられていないこと。
2.自分のしていることの位置づけや意味がわかっていない
多様性や異なる価値を理解し、受け入れるとなると、その存在は認めるが、自分がそれまで培ってきたアイデンティティや蓄積は後退し崩壊するのかという不安感が常にあること。
3.社会的役割を持っていない
自分は自分の価値観で生きていくとはいえ、一定の社会的評価に結びつかないならば、内向し孤立した感覚になる。
4.人の意向を気にし過ぎる
批判を受け止めて前進しようとすると、ただただ批判の克服にのみ焦点が当たってしまい、脅えた感覚になること。


さまざまなやむを得ない条件下で、今のような状況にあるのですが、もっと組織的に進路が導かれていたら、こんなエネルギーの無駄や人からの言われなき失礼な言動に脅えることもなかったのではないか、と思います。運、鈍、根でいくなら、運だけは仕方のないこととはいえ、あきらめるにもあきらめきれないところがあります。

だから、グルグルといつも悩みから抜けきれないのですが、本当に若い頃から、自分にあった教育研究環境でのびのびと学び、一直線に第一級の資料に当たって、研究を進めていけたなら、もっとうまくいったのかと言えば、それもわかりません。語学力が今よりなかったし、萎縮した感じになっていたかもしれないからです。
ですが、思い切って昨晩、勢いづいて文章を書き始めてみたところ、案外、夢中になって進められました。古いメールも探し出し、外国人の先生方からいろいろ励ましたり具体的に教えていただいたことがわかり、ほっと勇気づけられた感覚を得ました。
やはり、人間、受け止められて安定感を持っていなければなりません。書いてみると、結構おもしろく、意義も見えてくるのですが、ここに至るまで、どうしてこんなに緊張し、格闘し、もがかなければならなかったのかが不思議です。