ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ここでちょっと一休み

借りた本三冊が読み終わっていないし、ブログに書くべき重要事項も数ヶ月分たまったままだし、買った本も積んどく状態だし、締め切りの原稿もあり、中断したままの原稿もあり、そして昨晩から取りかかっている作業もあり、一体全体、毎日毎日、どこまでやっても追われているような日々。
とはいえ、クラシック音楽の話や、日常の些細な出来事を長々と綴っているのは、気分転換でもあり、感情の整理でもあり、人生を形作るのは、何も仕事という公の形式だけではないと考えているからです。その方が、能率は、断然上がります。

ところで、先程、英文校正が戻ってきたところですが、毎回、ひどく落ち込みます。こんなに直されるのに、メールでは海外に向けて、平気でいろいろ書いていたんだな、と思うと、申し訳ないやら....。
それでも、先方は何やら私のことを間違えてか何なのか、「○○博士」と宛名してコメントが返ってくるので、何なんだろう、と...。
昨晩、ある方のお父様の自叙伝を注文しながら、その方が1歳8ヶ月から3歳ぐらいの間に、お父様の研究に伴って、どのような過ごし方をされたかを読み、思わず身が震えるような気がしました。あまりにも自分とは雲泥の差。階層差というのか、知識階級のあり方の違いが、米日では歴然とし過ぎているのです。
それでも、日本は日本なりにやっている面もありますし、自分だって、特に日本国内では平均的な道を歩んでいるつもりです。しかし、何というのか、人生選択の初期環境が何をもたらすのかについては、もっと熟考すべきだったのではないか、と思わされます。
それに、その方に関しての一部の専門家およびブロガーによる風評が、日本語で読める限りでも、あまり芳しくないものが目立ちます。私が恐ろしいと思ったのは、その方の膨大な量の書き物を丁寧に読むこともせず、一部の突出した面だけが、過度に強調され、しかも、曖昧で誤解を含んでいるのにもかかわらず、言語上の非難攻撃をしているという点です。相手にもされていないのでしょうが、もしその気になられたら、名誉毀損で訴えられるのではないか、と心配にもなってきます。
もちろん、その方自身が潔白で何ら問題がないというのではなく、私でさえ、(う〜ん、私ならそこではそういう表現を控えるだろうな)とか、(いかにもアメリカだな)と笑わされたり、考え込まされたり、ということが皆無ではありません。それは、その方の飾りっ気のない、ぶっきらぼうで真っ直ぐな人柄のためもあるでしょうし、ある意味で恵まれた家庭環境などの背景もあるでしょう。
しかし、今も注文中の本が複数ありますが、(よく勉強しないと、安易には公表できないな)と、恐ろしくなっても来ます。英語で読むのは数分で済みますが、それを日本語に移すとなると、日本社会の読者層の状況をある程度は把握する必要が前提となりますし、どのような文脈でその文章が書かれたのか、ということも、専門的に知らなければ、大変なことになってしまうでしょう。
今でも私が最も驚いているのが、直接の面識もないのに、よくご依頼くださった、という一点に尽きます。依頼に応じたのは私の責任ですが、それにしても、多少のゴタゴタはあったにせよ、よく信じてくださったものだ、と。余程、ご自分の見識に自信をお持ちなのか、それとも、何らかの方法で調べる手段をお持ちなのか、それはよくわかりませんが、昨晩も、震えるような思いがしました。後さずりしそうな心持ちです。
ところが、主人にそれを言うと「な〜んにも怖くないさ。そんな程度で怖がっていたら、仕事なんて何もできない。あの先生だって、ある程度は、ちゃんと見抜いてわかっているよ。それに、日本では、あの先生の仕事内容を、本当の意味で理解できる人が、ユーリ以外、見つからなかったんじゃないか?だったら、大事にしたらいいよ。人の評価なんて、時代によって変わってくるしさ」と、平然としていました。
「ああいう、一見とっつきにくいタイプの人ほど、実はすごく誠実で、親身になってくれる人なんじゃないか?」と。
作業をしながら、(あの時のメール返信の意味は、こういうことだったんだわね)と、改めて感じさせられることもあります。また、文章の内容によっては、(ちょっと神経質過ぎるのでは?)と感じることもないわけではありません。しかし一方で、できるだけたくさん依頼に応えることで、少しでも喜んでいただけたらいいな、と願う気持ちになっていることも、また事実です。