ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人生万事塞翁が馬

昨日の続きです。
そうはいっても、落ち着いて考えてみれば、私にとっては、長い目で見て、必要な休養と充電の時期であるかもしれません。今ほど、精神的な意味での自由な時はないからです。平均寿命までいけるとしたら、あと半分は残っているたっぷりした時間です。まさか、ずっと家にいるはずがないでしょう。最近では、緒方貞子先生のように、80歳過ぎてもまだ、現役で職についていらっしゃる元気な方が増えてきました。また、そういう方々のおかげで、世の中の制度も随分変わってきたように思います。もっとも、しっかりとした力をつけておかなければならないことは、言うまでもありませんが。
独身の頃は、エネルギーが余っていたのでしょうし、一人の時間が不安なような、誰かと何らかの形でつながっていないといけないような強制感覚がありました。だからこそ、休みがとれれば、さっさとどこへでも出かけて行こうとしていたのかもしれません。若さにかまけて、後先も考えず、まるで押しかけ女房みたいに...。
あの頃の予定表を見ると、確かに、行事はぎっしり。下積み時代に何でもやっておかなければと、まことに健気な気持ちでした。
ただ、よくよく思い出してみれば、あの頃はあの頃で、「ゆっくり考える時間がほしい」「もっとじっくり硬派の本を読みたい」「疲れたなあ」「物事をきちんと整理したい」などと感じていたことも事実です。
いろいろな人から電話がかかってくると、お誘いはありがたく、「はい、行きます」と返答しつつも、一方で、(失礼な話ですが)自分のスケジュールは自分で管理できれば、などともどこかで思っていました。
結局のところ、若い時期を若いなりに過ごさせてもらえて幸いだったということですね。
本を読むのが好きなのは、とどのつまり、問題意識を感じ、自分の至らなさを日々痛感しているから、何らかの方法で補わなければ、と思うが故の行為。ふさわしい本を調べる意欲や、読んでノートを取ることだって、ある程度のエネルギーがなければできないこと。それに、新しい物の見方や考え方に触れたいと願うのは、それだけ飢え渇きを覚えているからでしょう。
ただし、子どもの頃とは違って、一冊の本を読み終わるのに、結構時間がかかるのです。すぐに読める本は、大抵つまらないことが多いです。論文だって、10数ページのものでも、中身次第では時間がかかるもの。なので、予定を立てても、それ以上に時間をとってしまうことが多くなり、その結果、家にこもる時間が長くなります。
それほど悲観すべきことでもないのかも?せっかく、夢中になって調べ続けているテーマがあり、資料もそこそこ集まっているのに、ここで放り投げたらもったいないことです。さまざまな理由から、今のところはフリーな立場で納得のいくようにマイペースでまとめていき、ある程度、出来上がってきたら、何とか次の場所を探そう、と考えているのですが。
高校の同窓会の連絡がありました。なんと、あの田舎の高校から、ヨルダン駐在の外交官が出たらしいのです。少し上の先輩ですが、それにしても....。同じ高校で、同じレベルの授業を受けて、こうも進路が違ってきてしまうんだなあ。とにかく、出身校云々ではなく、社会に出たら「自分が何ができるか」が勝負なんだと、改めて勇気づけられました。
また、10年以上、ささやかなお金を送り続けている「あしなが基金」の機関紙には、あしなが奨学金その他を活用して大学進学し、今は、マレーシアの土壌学で、熱帯雨林などの環境問題に取り組んでいるという31歳の男性研究者の話も出てきました。奥様も青年海外協力隊でマレーシアにいらしたことがあり、共通項を軸に、それぞれに生活をされているようです。その研究者は京大の方なのですが、「研究はコネや相性の世界かと思っていたけれど、一生懸命に自分のテーマに取り組んで学会発表してみたら、ちゃんと見ていてくれる人がいて、面白い研究していますね、と声がかかった」というようなことが書かれていました。
あしなが基金では、苦学生や貧しい家庭環境の話が多いような印象を持っていましたが、同時に、のびのびと自己実現されている人も紹介されています。かえって、こちらが励まされるぐらいです。というよりも、私自身が元気づけられたいから、細々とでも支援させていただいている、といった方が正確です。