ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

雑感その1

ジャック・ティボーやオイストラフの本は、懐愁ということばがぴったりするような気持ちで読みました(参照:2008年1月30日付「ユーリの部屋」)。
もっとも、ティボーは、彼の音程と似て、いささか甘い記述のような感じもなきにしもあらず。オイストラフも、ソビエト音楽礼讃の陰に、どれほどの労働搾取のような厳しい監視が付いて回ったことか。それを思えば、それほど楽しい読書というわけではありません。ただ、ヴァイオリンの音が人々を変えていった体験を綴ったティボーと、毎日の身を削るような鍛練と多くの論文を綴ったオイストラフからは、つい置き忘れてきた遠い感覚が揺り覚まされたような思いがします。
そうなんだ、あの時代は、貧しくとも、精神的な価値にもっと重きを置いていたんだ。フランスの植民地モロッコでの慰問演奏会(p.239-250)と現地のパシャからの音楽称賛の話(pp.261-263)、マニラで猛蛇に見つめられた演奏会の話(p.277)は、ティボーならではの経験だったのか、それともこの時代の名高い演奏家ならば、そういうことが珍しくもなかったのか。それはともかく、現代の我々が知っておくべき貴重な経緯だと思います(ページ数は、J.ティボー(著)・粟津則雄(訳)『ヴァイオリンは語る白水社1987年8月)から)。
「そんなことをしている間に、もっと論文書いたら?」と言う人もいます。私の考えでは、分野にもよるのでしょうが、自分のテーマが多少遅れたとしても、こういう方面からの刺激を求め続ける方が、遥かに重要ではないかと考えます。前者の意見からは、あたかも視野の狭い点取り虫のような受験生が思い浮かびます。
年を取ればとるほど、それは本当に怖いことです。年齢とともに、学ぶべきこと、知っていなければならないこと、身につけておくべき感覚やわきまえ(常識)、というものが暗黙のうちに期待されているのに、そこに到達していないくせに狭い範囲で満足しているとするならば、とても恥ずかしいことです。
しばらく前に、『他人を見下す若者たち』という本が新聞広告にあったかと思います。私は読んでいませんが、要するに、「自分を何様と思っているんですか、今の若い人たちは」ということなのかと想像しました。「世間の評判は、ある程度は真実を言い当てている」というのは、ヒルティのことばです。一方で、「世間は放っておきなさい」ともヒルティは言っています。問題は、この両面のバランスをどうとるか、ですね。