ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

いずみホールでのリサイタル(3)

いずみホールでのリサイタルの感想、なかなか進みませんねぇ。昨日は、ブロッホのヴァイオリン・ソナタを購入してもらったのですけれども。
渡辺和彦ヴァイオリニスト 33 名演奏家を聴く河出書房新社2002年)には、「アイヴズ、ブゾーニブロッホも現役の少し気のきいたヴァイオリニストならば、今やレパートリーに入れている」と書いてありました(p.45)(参照:2008年12月28日付「ユーリの部屋」)。ということは、私も「気のきいた」演奏家のリサイタルに行くことができたってわけですね。ちょっとうれしい気分です。
30前後の頃までは、いつも年上の方ばかりを意識して、(ご年配の方はこんなにがんばっていたのに、今の私の世代は何だ)と自分を叱咤激励していましたが、どうしてどうして、若い方からだって、多くを学べます。
クラシックの場合、演奏家が20代30代と若いのに対して、聴衆の方が白髪の人中心、というコントラストがあります。若い頃は、一種のモデルとして同じ世代またはベテランの演奏家を、年をとってきたら、それ相応に年齢を経た演奏家を聴くようになるのかなあ、と思っていました。でも、自分が人生の半ばを迎えるようになると、そうでもない、とわかります。若さいっぱいの演奏家から、エネルギーをもらいたくて、庄司紗矢香さんのリサイタルのチケットを購入してしまっている自分がいますから。
そうそう、どうして感想文が遅れ気味なのか、と言いますと...。それ相応の理由があるんです。
1.ブラームスのヴァイオリン・ソナタでは、CDで承知済みだったものの、相変わらず(?)、(なんだか、随分元気のいいブラームスだなあ)と感じてしまったこと。紗矢香さんの方も、恐らくは「わかっているけど、今の私しか演奏できないやり方で演奏してみたい。それもおもしろいんじゃないかな」というお考えなのかもしれませんが。いつでも、舞台には元気よく大股で出てくる紗矢香さん。それはいいけれども、ブラームスに関しては、いささか違和感を覚えてしまったかな?ブラームスと言えば、根底に温かいものが流れているものの、重厚で渋さのある曲というイメージが私にはあります。ピアノでラプソディを習っていた時、特にそう感じましたから。
2.ホールの出口で、アンコール曲目が紙に書いて貼ってある立て看板には、大勢の人が群がり、携帯を取り出して写真に撮っていました。携帯を持たない私は、間違いのないよう、チケットの送られてきた封筒に鉛筆でメモをしておきました。
気分よくホールを出ようとしたところ、すぐ後ろにいた60前後のおじさんが、「エルガーの朝の挨拶か...」と感心したように呟きながら歩いて来ました。(え!違うんですけど。愛の挨拶ですってば!)と思った途端、何だかやる気がなくなってきてしまったんです。(←人のせいにするな!)
曲のタイトルって、イメージを作り、作曲家の意図を理解するのに重要だと思うんですが、どうしてあの曲が「朝の挨拶」になるんでしょうか?う〜ん、私には理解不能だ...。それはともかく、曲目提示の看板に群がって、アンコール曲名を覚えようとする日本人の涙ぐましい努力は、確かに称賛に値します。こうやって、日本は外来文化を吸収しながら、独自の文明を築いてきたってわけですね。
3.チケットの半券と封筒を紛失してしまったこと。これは、帰宅後すぐに気づきました。帰る途中、地下鉄や電車の中で、本を取り出して読みふけっていたのが、敗因だったのでしょう。バッグから本を出す時、落としてしまった、という...。こんなこと、初めてです。いつも、プログラムはファイルに、半券は備忘録か家計簿にホチキスで留めておく習慣があったので、本当にがっかりです。翌朝、ホールに電話してみましたが、ハンカチ以外は忘れ物がなかったそうです。

シューベルトのソナティーナは、紗矢香さんの思い入れが深いだけあってか、明るい印象を受けました。また、メシアンの「主題と変奏」は、是非ともスコアを見てみたいものだと思いました。ブロッホも、何度か聞き直してみれば、(あ、どこかで聞いたことある)と思えるような曲でした。
簡単ですが、とりあえずこの辺りで、いずみホールでのリサイタルの感想は、ひとまず〆といたします。