ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

奄美大島への旅

今日で今年も残り一ヶ月となってしまった。
「光陰矢の如し」とは、よく言ったもので、年々、時間の経つのが加速度化すると同時に、自分の身に起こる経験に自分なりの解釈の重みと幅が増すので、物事の進め方が難しくなる。
よかった点としては、今日で耳鼻科が終了したこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171128)。軽い外耳炎だったが、症状は一ヶ月以上続いていたので、自己流の自然治癒を待たずに、思い切って診ていただくことにした。
今日、カビ菌検査の結果を聞きに午前の受付終了一分前に到着したところ、待合室はガラガラで、しばらくすると院長先生に診ていただくことになった。これがまた一分で終了し、「来ていただいたけれど、カビ菌の方の検査結果はゼロ。今回の症例は、黄色ブドウ球菌による炎症で、処方した抗生物質がよく効いた」という結論だった。
しかし、ほぼ二十年ぶりに、我が町に引っ越してきた当初に通院した振り出しに戻って、この度、17日間で計5回通院し、院長先生を含めて三人の先生に診ていただくことになったことは、記念すべき得難い経験だった。耳鼻科の場合、患者が多いので、タイミング一つで待ち時間が大幅に変わることと、診察後、別の薬局まで自転車を漕いで処方薬をいただいて帰宅すると、相当な時間がかかることもわかった。
今年は2月上旬から、思いがけず帯状疱疹の発症により(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170306)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171010)、とにかく眼科の通院が長引いたので、いつ治るかと考えただけでもストレスがたまり、仕事もとかく遅れ気味になった。
医療費ゼロを目指して生きてきた半世紀以上だが、やはり無理をせず、早期発見と早期治療で、きちんと最後まで治療を受けて、指示通りに投薬を守ることで、早く治り、予後も改善されることだろう。
最近は、二十代の頃からの習慣だった「仕事が終わるまで」と夜更かしするようなことはせず、規則正しく10時頃からぐっすりと寝ることで、高校生の頃からとかく充血気味だった両目が、子供のように薄く青みがかったきれいな白目に戻ってきた。それに、お手製の「こもジュース」や「味噌ママ」や「こもドリンク」によって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171023)、疲労感が減り、集中力が増した実感がある。
これもそれも、もし今年の激寒の最中に帯状疱疹を発症しなかったら、意識上では元気なつもりで動き回り、かえって無理や疲労を堆積させて、全体としてはむしろ体調が悪化していたかもしれないことだったのだ。
寿命が急激に伸びている昨今、学生時代の感覚で人生設計を考えていたら、とても持たないだろう。今年の予想以上に長引いた各種の通院経験は、来年からの予定に活かされなければならない。

さて、今年は結婚二十周年記念ということで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171116)、主人が10月に計画した奄美大島へ11月18日から20日まで行ってきた。
奄美大島と言えば、私にとっては、名古屋市内の小学校に入学した直後、(書道家のお名前も持っていらした)担任の女の先生のお話がまず思い浮かぶ。
「本当ならば、今日、みなさんと一緒にショウちゃんという男の子もこの教室にいる予定でしたが、船が出ないので入学が少し遅れます。ショウちゃんは、『あまみおおしま』という南の島から、この名古屋へ家族で引っ越してくるんですよ」ということだった。そして、先生は黒板に平仮名で「あまみおおしま」と美しく書いた。
ショウちゃんは、しばらくしてから登校するようになったが、体は小さいけれど目の大きい、元気な男の子だった。
とかく昭和は大らかな時代。西郷隆盛の島嫁に代表されるように、奄美大島島流しの地として昔から琉球王国薩摩藩によって交互に支配され、戦後はしばらくアメリカにも占領されていたことさえ全く気にしないで、一緒にショウちゃんと走り回って遊んでいた私達だった。
今から思うに、恐らくは先生の説明が巧みだったのだろう。米国の委任統治時代には、九州へ渡る時にもパスポートが必要だったと今回も聞いたが、国境意識が今よりも遥かに明確だった当時を改めて彷彿とさせる。そう言えば、俊寛は喜界島へ流されたと、小学四年生の頃、ピアノの先生にいただいた本で読んだが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120408)、大島紬の反物を見せていただいた際にも、その話が出た。
今回は、奄美空港に近い北端と名瀬に一泊ずつした。島全体を縱膻するならば、車で三時間かかるとのことである。
北端は景色の美しい場所で、今上天皇皇后両陛下が、紀宮清子内親王殿下がご誕生される前の皇太子時代に宿泊されたそうである。昭和43年4月と記されていたお写真では、今は想像もできないほど厳しい表情をされていたが、奄美の会席料理だと説明されたメニューの逸品の鶏飯について、「美智子様が今一度、今一度、と喜んでおかわりされた」とも伺った。(それにつられて、私は二泊三日の間、鶏飯を四度もいただいた。)
昭和47年には昭和天皇皇后両陛下がご訪問されたことが、ホテル内のお写真とご滞在スケジュールをまとめたファイルに、誇らしげに提示されていた。昭和2年にも行幸されているとのことであるが、昭和40年代には、天皇陛下も皇太子殿下も、いずれも大島紬の工房等をお励ましになる目的のご来訪であったようだ。他にも、秋篠宮ご夫妻(平成9年6月上旬)や常陸宮ご夫妻や故高松宮ご夫妻のお写真が飾ってあり、皇族方が奈良時代から続くこの貴重な島の伝統を大切にするよう、範を示されたご様子だった。
昭和天皇には16枚の花弁を持つ菊の紋章を織り込んだ大島紬を、秋篠宮殿下ご夫妻にも亀や草色の地のデザインの大島紬を、それぞれに献上されたという展示があった。
昔ながらの柄もあれば、モダンで大胆なデザインもあり、時代の変遷を感じさせられた。
その後、ホテルの目の前にある昔から続く工房で、織り機を含めて一時間二十分ほども熱心な説明を聞いた。
今や若い人達には後継者が減り、大島紬の伝統の技を知る主流は70代だという。時間をたっぷり一年以上かけて繰り返し染め上げ、糸を丹念に織り上げる、根を詰めた手間暇のかかる細かい作業に、若者が向かなくなっているとのことだった。昔はお嫁入り前に花嫁修業の一つとして、娘が母親から手ほどきを受け、婚家では家事の合間の内職として、注文を受けては主婦が機織りをしたものだが、今や現金収入が簡単な仕事に就いたり、最初から休日を要求してくるなど、若い島人の気質の変化を大変に心配されていた。
家で作業をしていると腰や肩が痛み、細かい図柄のために目が疲れ、期限までに仕上げることは大変だが、需要があればこその喜びであったはずの仕事が、和服を着る層の減少と少子高齢化の影響で、このままでは途絶えそうだとの懸念だった。昔は万単位だったのが、現在では千単位の受注だとのことである。
それに、島内ならば結婚式や成人式に皆で着るのがしきたりであっても、紬なので、本州では着て出入りできる場所が限られてくるとも伺った。
投げ入れも含めて織り機を何とか使いこなせるようになるには、約二、三ヶ月かかるそうである。だが、美術関係に興味のある人ならともかく、普通は大島紬だけでは食べていけないそうなので、せっかくの伝統が廃れないよう、早急に手を打つ必要性を感じさせられた。
着物用の反物までは購入できなかったが、大島紬の端切れで作った小物入れを、旅の思い出に買い求めた。
かつては天皇皇后両陛下や皇族方が次々とご訪問され、昭和天皇をお迎えした椅子まで保存されていたのに、大島紬の現状は、一体全体、どうしたことだろうか。
帰宅後、ウィキペディアで調べたところによれば、どうも島の業者が韓国や中国で生産指導をしたらしく、韓国や中国からの輸入紬に押されているらしい。とんでもないことだと驚くが、安ければ買うという購買者の存在もさることながら、伝統工芸の本質的な意味そのものが薄れていることの証左であろう。
かつては上からの直々のお励ましがあったことを、もっと強調して伝え、教育指導の中心軸に据えなければならない。日本には天皇を中心とした頂があってこそ、辺鄙な僻地にも列島を取り囲む小さな島々にも、深く静かに浸透した日本人意識、国家意識があったはずなのに、こんなことではどうしようもない。
名瀬は、コンビニもイオンもある奄美市の中央という位置づけだが、こちらではもっと明確な組合のようなものを結成して、大島紬を保存していこうという動きがあるようだった。
ただ、周辺を見て回ったところでは、建物が全体的に古びていた。あたかも昭和50年代辺りがそのまま残っているかのような印象で、何だか懐かしいが、その中でも突然、法テラスや大手受験指導塾が飛び出してくる辺り、新旧混在地区のようでもある。
偶然読んだホテル内の『奄美新聞』には、奄美大島の北部にある28のカトリック教会に関して、過去に直面した迫害史が、今また繰り返されようとしているという主張の講演があるらしいと知った。信者は3500名で島の6パーセントの人口を占め、龍郷町、大和村、奄美市に存在するという。
ちなみに、新聞は『聖教新聞』ならぬ『公明新聞』を含めて、他に『南海日日新聞』『南日本新聞』等の地元紙が並べられていたが、リベラル系の後者は、ちょうど同じ頃の今上天皇皇后陛下与論島へのご訪問を、全く敬語なしで記事にしていた。前者は、敬語を用いて報道していた。
このように、敬語なしに慣れてしまうと、平民の意識変化に応じて、天皇皇后両陛下や皇族方のあり方も影響を受けざるを得ない。この度の奄美群島へのご訪問に関しても、本州では「譲位を宣言された後も、“高貴高齢者”が元気に飛び回っている」という揶揄を込めたブログを見たが、とんでもないことである。不満遣る方無き自分の状況を、まるで天皇皇后両陛下のせいでもあるかのように同一化することは、一見、民主主義社会における言論の自由権の範囲内のように思えるかもしれないが、その延長線上に大島紬の現状があるのである。よく心したい。
ところで、この度は名瀬聖心教会の近くを散策してみたが、恐らくは奄美に生涯を捧げたシスター達の遺影であろうか、昭和時代までの日本家屋で亡くなった家族の白黒写真が鴨居近くの壁に飾ってあったような形に似せて、ずらりと並べられていたのを外から目撃した。
戦時中の教会迫害については、本州でも長らくよく耳にするところではある。実際には、カトリック教会が現地文化の尊重という意味で神社での拝礼を黙認していた事例もあるのに、奄美大島では迫害一辺倒だったのだろうか。本当は何が起こったのか、その理由と文脈は何なのか、その証拠となる事実はどこにあるのか、もう一度、イデオロギーを外して考え直してみたいところではある。
なお、現在はペンテコステ教会モルモン教等、さまざまなキリスト教系の組織が奄美大島には存在しているようである。仏教寺院はないとのことだが、本当だろうか。
教会から少し歩いた所にあった、教育委員会が入っているらしき古びた建物の前には、何やら勇ましい日教組風の檄文みたいな歌が看板になっていた。近くには「九条を守れ」の垂れ幕も掛かっており、全体として今一つ発展していない、寂れた感じだった。沖縄の方が、米軍基地があるために、本土から悪い待遇を受けているかのように報道されがちで、良くも悪くも注目を浴びるのだが、基地がない奄美大島は、比較的穏やかで静かではあっても、地名が轟いている割に、全体として経済が滞っているように見受けられる。
一言で言えば、島人のせいというよりは、思想が間違っていると経済も停滞する、ということではないだろうか。また、簡単に外圧に影響されるようであっては駄目だ。
名瀬では、イオンの中を覗いてみると、喪中葉書のデサインが色鮮やかで、本州とは違うと思った。
最終日には、空港近くの奄美パークへ行ったが、主人は飛行機に乗り遅れることを心配して、一足先に空港へ。黒砂糖を使ったお菓子をたくさん買い込んで待っていたらしい。
私は、奄美群島のそれぞれの伝統的な踊りや暮らしのビデオを見たり、50歳過ぎてから奄美に引っ越して絵を描き続けた画家の田中一村美術館を駆け足で見て回ったりした。
この美術館は、平成13年に開館したとてもモダンな建物だが、島の外から見に来る人向けのデザインであって、島そのものにはマッチしていないのではないかと思った。紬工をして生活費を稼ぎつつ、お金が貯まると絵画に向かったという19年間の大島での画家の人生には、非常にストーリー性があって印象づけられたが、「国宝」展(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171025)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171129)等で見慣れたデッサンや色使いとは異なった特徴があり、よくわからないというのが正直なところだった。
バスは一時間に一本ということで、乗り過ごしたら大変だ。余裕を持って切り上げて待っていたが、案の定、バスの方が遅れて、空港まで5分ほどであっても、ギリギリだった。
幸い、鹿児島からの飛行機の到着が全便遅れたということだったので、満員の行列で大変だったが、何とか予定の飛行機に乗って関空まで戻れたのは、幸いだった。奄美の空港には管制塔のレーダーがないとのアナウンスがあった。
それにしても、鹿児島から沖縄までの島に住む人々の暮らしには、もっと我々も日頃から関心を持ち、大切にしなければと痛感する。沖縄や屋久島や種子島は、それぞれに特徴があって著名なので、まだ比較的良いが、奄美大島の暮らし、特に大島紬の現状と行く末には、もっと心を寄せるべきだというのが、今回の旅の教訓だった。