ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

昨日の演奏会の感想(続き)

昨日の演奏会のインパクトが強過ぎて、ついN響アワーの悪口を書いてしまい、内心忸怩たるものがないわけではありません。自分が弾けもしないのに批判だけは、というのはよくありません。ただ、一素人として、それだけ良い演奏に触れる機会が拡大したという意味ですし、個人ブログで自由に感想が書けるのも、音楽鑑賞の裾野が広がった証として悪くはないと思っています。昔は、その筋の専門家か音楽評論家しか語る権利がないかのような雰囲気があり、音楽雑誌やテレビやラジオの語りを通して、(あれ?)と内心思ったとしても、えらい先生方のおっしゃることを素直に聞かなければならないという暗黙の不文律があったように記憶しています。その点、現代の方が、皆さんもっと素直にはっきりと自分の感性に正直になっているようで、私はその方がいいと思っています。
そうはいっても、一応は気になって調べてみると、私と同意見の人も結構いた中で、あの中村紘子氏の演奏会で感動している方もいらっしゃるようですし、お歳の割にパワフルだという印象を書いている方もいらしたので、「音楽の感じ方は人それぞれで、時によってまた変わるもの」という五嶋みどりさんの言葉に改めて納得した次第です。
それでも、上質の演奏会の後は、翌日も体の中で響き続けるものが残っている感じがします。もし、会場を出た後で、あっさりと次の用件にとりかかっていけるとするならば、自分の感性と合わなかったか、それほどの演奏会ではなかったという証拠だろうと思います。少なくとも、私にとってはそうです。
いろいろと演奏会のことを書いていますが、これほど出かけるようになったのは、ここ最近のことで、やはり時間もお金も浪費はできませんから、誰でもよいからホイホイ出かけていくというわけでもありません。かなり吟味して、「多少お金がかかってもこれだけは是非行きたい!」と思えるような演奏会しか行っていないと思います。昔は、有名な人とか好きな曲が演奏されるというだけで、チケットをもらって喜んでいた節がありますが、もうこの歳になると、そこまで悠長な暇なことはしていられません。それよりも、(お金を払っただけのことはあった)と思えるような演奏会に限定して、一期一会を大切にしたいと思っています。
さて、今回のフィラデルフィア管弦楽団の日本ツアー・プログラムは、協奏曲一つに交響曲一つプラス短いアンコール曲一つ、という、実に二点豪華主義というのか、安売りをしないプロ精神というのか、筋が通っていて感銘を受けました。
大抵は、ソリストの登場前に、会場の雰囲気作りのために、まず、少し短めの曲を一つ演奏してから、協奏曲に入り、後半は交響曲となるのが定番かと思います。しかし、今回はいきなりソリスト登場でしたので、咳込みもしばらく続き、少し残念でした。これは、受け手側の問題です。せっかくのカデンツアで咳が聞こえると(うーん)と思ってしまいますし、静かな集中力を要するところで、気軽に何度もコンコンと咳をする人がいると、演奏家に失礼では、などと感じます。(かくいう私も、昨日は前半で一回だけ不覚にも咳が出てしまいました。空調からの埃が鼻に入ったのか、どうしようもなくなったのです。本当に申し訳なく思いました。)
これと対照的だと思うのが、昨年のゲルギエフ指揮・マリインスキー歌劇場管弦楽団の日本公演です。あのときは、交響曲二つにピアノ協奏曲一つにアンコール曲が三つでした。演奏する側は、体力上きついのではないかと思います。外国なんですから、楽団員の移動も大変です。でも、聴く側にとっては、一度にこれだけ聴かせてもらえるなら大満足、というところもあります。
この辺りは、演奏家の方針も関係してくるのでしょうか。今回は、サントリーホールで計三日間、関西では西宮で一日だけ、というツアーだそうですが、みどりさんの方は、その後もミュージック・シェアリングなどのツアーや報告会などがしばらく続くとのことです。そのことと、楽団員の体力温存のためもあり、このようなシンプルなプログラムにされたのかもしれません。
いずれにしても、聴く側も、一生に一度の組み合わせと思って真剣勝負ですから、演奏家の仕事とは、神経を使う並大抵のことじゃありませんね。論理や理屈以上にその場の感覚ということもありますから。こちらは普段の生活のまま、待っていてお迎えする立場ですが、移動して音楽を聞かせてくださる側は、時差ボケとの闘いの中で、最高のものを差し出さなければならないのですもんね。
昔ならば、クラシック演奏家は、雲の上の人という神秘的な存在でしたが、音楽産業の危機という側面もあるためか、今の時代のよさは、自ら演奏ツアーの日記を公開してくださったり、ホームーページで普段の暮らしぶりなどを教えてくださるようになり、それが音楽の伝え手と受け手の相互作用で理解がより深まり、身近なものとなっていることです。今回も、みどりさんが「旅するみどり」と題するホームページで日誌のようなものを書いてくださっています(http://www.47news.jp/culture/midori/)。これによって、演奏家がどのように曲目を選択したのか、また、どのように本番前を過ごしているのか、指揮者との連携プレーはどうあるのか、などがよくわかり、演奏会場での過ごし方が、より満足のいく意義深いものとなります。
昨日の演奏で、みどりさんが思い入れ深く奏してくださったブリテンについては、きっかけがつかめたので、またいろいろ聴いてみて、視野を広げたいと思います。それと、ショスタコーヴィチについては、上記のゲルギエフで第15番を聴き、確かに当時の雰囲気や経験を継承した上での本場ロシア風の演奏を生で味わえたのは、実に得難かったと思います。一方、昨日の第5番は、これまたロシアとは対照的にいわば外側の楽団が客観的に研究した上でのかっちりした演奏という印象を受けたので、昨日も書いたように、メリハリのきいたわかりやすい解釈だったかと思うのです。どちらがいいかというのではなく、アプローチや奏法が違うということです。内側から「ロシア音楽ってこうなんですよ」と聞かせてもらうのと、外側から「私たち、この曲はこうだと思います」と伝えてもらうのとの差異ではないか、と思いました。
それにしても、ショスタコーヴィチの人気がこれほど高いということは、生前の人生が、政治体制のために思うような作曲ができず、表面的には生活のために妥協せざるを得なかった部分もある中で、ある意味で労苦が実った事例ではないかとも思われます。苛酷な抑圧体制を生き延びざるを得なかったからこその音楽であり、それを理解し共鳴するからこそ、こうして繰り返し演奏され鑑賞され続けるのだろうと思います。作りが凝った曲ですし、自他ともにさまざまな作品のメロディを借用し変容させているところが、魅力であります。そういう工夫が、くっきりと演奏に表れていたところに、昨日の演奏の素晴らしさがあったと思います。
楽団員は、髪の黒っぽい方が多いなあと思っていたら、パンフレットでは韓国系や日本人の名前が含まれていました。また、ドイツ系楽団員のように、終了後に握手し合うような習慣は持たないようですが、きっちりとまとまった楽団のように感じられました。
エッシェンバッハ氏の指揮ぶりは、ドイツ出身の方だからなのか、かっちりしていてブレが全くなく、これなら間違いなくついていけるという安心感のあるものでした。体格もがっちりされていますが、CDにサインをいただいた時、主人はじろりと睨むように見つめられた、とのこと。みどりさん恒例のMeet&Greetの方が、最初は列が少なかったように見えたので(後でずらりと増えました)、私がみどりさんの列に並び、主人がエッシェンバッハ氏の方に並んだというわけです。お疲れだろうに、舞台での薄く青がかった淡色の白っぽいドレスから、黒っぽいワンピースに同系色のカーディガンに着替えて、立ったままサインに応じられました。
私の場合、これで三度目のサインとなりますが、今回が最も丁重に時間をかけてくださったように思います。シンフォニーホールでは、お客さんが多いせいもあり、割とビジネスライクな感じで、誰に対しても、特にご自身から何かを話されることはありませんが、昨日は、みどりさんの方からにこやかに手を差し出してくださり、プログラムにサインをしてくださった後も、じっと見つめてくださったんです。私が「“Einfach Midori"を一生懸命読んでいます」と言ったからでもあるのでしょうが、何かおっしゃりたそうな表情をされていました。唯一残念だったのは、写真です。カメラを持って行ったんですが、私の前の人達は、みどりさんと並んで携帯で写真を撮ってもらっていたし、すぐ前のおじさんは、ずいぶん長くしゃべっていらしたので、私もカメラを手にしていた以上は、(初めて)ご一緒させていただけるのかな、と思っていたら、アシスタントの女性が、「あなたは、もうさっき自分で写しましたよね」(列で待っている間に脇からみどりさんと他の人を撮っていたのです)という感じで横を向いてしまったので、つい遠慮してしまいました。写真を撮ったからといって、どうこうするつもりはまったくありませんが、肖像権というものもあるでしょうからね。
まあ、思い出は、写真以上に、CDとパンフレットが支えてくれますし、何よりも、演奏家と共に、同じ音楽を通して、時空を共有して一生のひとコマを共に過ごしたという記憶の方が大事でしょう。不思議なもので、その場ではメロディーをくっきりと全部覚えているわけではなくとも、後になって別の機会に同じ曲を耳にすると、当時の演奏が自然に蘇ってくるのです。多分、聴覚機能と視覚機能と共に、肌感覚で空気全体を体験するからでしょう。だから、生演奏は重要なのです。
みどりさんの人気は衰えることを知りません。今回も、東京三日間に関西が一日加わったのも、恐らくはみどりさんが関西出身だからという配慮が働いたからではないかとも思います。
みどりさんの魅力は、やはり、音楽そのものをできるだけ多くの人々に伝えようとする真剣で高い精神性と深い哲学思想だろうと考えています。昨日も演奏を聴いている間中ずっと、故アイザック・スターン氏の“Midori today is a complete artist.”という言葉が、繰り返し耳に響いていました。そして、「音楽的に完成されているばかりでなく、人間的にもすばらしい」「私は音楽家としての生き方の助言を、彼女に伝えた」と、付け加えられていたこともです。人が舞台から受け留めているのは、結局は音楽を通しての人生や生き様だと思われます。
若い頃は真摯で謙虚であったとしても、大きなコンクールで優勝したり、目立った活動をするようになると、ともすれば、つい技巧をひけらかしたり、わがままになったり、音楽につきまとうお金の部分に目がくらんでその筋の人々に惑わされたり、女優まがいの派手な格好で舞台に出てきたり、大言壮語するような人が、残念ながら決して皆無ではありません。でも、みどりさんの場合、厳しくお母様に鍛えられ、訓練され、並大抵ではない苦労も積んでこられたからこそ、構えが全く違う感じがします。生い立ちも、好むと好まざるとに関わらず公開されてしまっていますし。また、神尾真由子さんが音楽雑誌で語っていたところによれば、演奏中の姿勢がくねくねしているように見えるので、独創的な演奏かと間違えられやすいものの、実は、基本線に沿った正統なもので、ブレがないのだそうです。また、みどりさんのレッスンを受けると、その教え方は論理的で筋が通っていて、とても納得のいく説明なのだとの由。
世界的演奏家としての名声に甘んずることなく、常に向上心を持って自己研鑽を怠らず、基礎練習を毎日欠かさず続けることで、あのような透明感あふれる審美的世界を維持されるのでしょうね。舞台衣装もシンプルで清楚で、清潔感があり、毎回、期待を裏切られないという安定感があります。
あちらこちら飛び回って、あれだけの驚異的な活動を続けるだけでも想像を絶することですが、どうぞくれぐれもご自愛くださって、末永くお元気でいらしていただければと願っています。