ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

オランダでの思い出その他(2)

昨日、オランダの文通友達の話を書いたので、その続きを少し綴ってみようと思います。繰り返しになりますが、時間に多少余裕のある今だからこそ書けることでもありますから、今のうちに、というわけです。
改めて考えてみると、当時の私は、学生という身分に守られ、両親の庇護の元で暮らしていました。今は、正社員としての主人の勤務のおかげで扶養家族として暮らさせてもらっているとはいっても、この先どうなるかわからない不安感を持ちつつ、毎日が必死な思いです。基本的に頼れるものは何もなく、何事も自分で判断して決めていかなければならないという緊張感を日々担いつつ、生活しています。毎日が重いのは、時間を経るごとに、物事の意味が厚みを伴って実感できるようになってくるためもあります。「楽しく幸せに暮らしています」というのは、単なるご挨拶なのかもしれません。
さて、今振り返ると、そういう「保護者付きの守られた立場」であった学生時代に、勢いだけでヨーロッパを訪問できたのは、我ながら若さゆえの行動だなあ、と思います。オランダの前に滞在していたイギリスでの三週間のホームステイ(ボーンマスとロンドン)は、そもそも、国文学専攻なのに、欲張って英文科の外国人講師による授業も二つ受講していたことがきっかけでした。春休み中のイギリス人講師のお里帰りに伴って、学生向けホームスティのプログラムが紹介されたことを機に、早速、便乗申込したというわけです。今ならいろいろ考え過ぎて、何かと躊躇してしまいそうなのですけれども、帰宅後、母に話すと、「大学のプログラムで格安だから」というので、すぐに同意してもらえました。
1980年代にヨーロッパへ一カ月も行くとなれば、当時の記憶では、五、六十万円ぐらいかかっていたかと思うのですが、なんと私の場合は、往復の飛行機代込みで、総計二十万円以下で行けました。ペンフレンドのご家族のおかげで、オランダとドイツでの滞在費は実費だけで済みましたし、そもそも、マレーシア航空利用の南周り(ドバイ経由)だったからでした。それぐらいなら、アルバイトでためた貯金を使って、なんとか自力でできました。こうしてみると、やはり私にはマレーシアがご縁だったのでしょうか。そういえば、当時のドバイは、昨今テレビで見かける町並みと全然違って、何もありませんでした。

ちなみに、主人や弟は理系の研究職なので、話を聞いてみると、オランダやドイツの他にも、フランスやイタリアなどのヨーロッパ諸国には、何度も行っていたようです。弟なんて、(英語もろくに話せないのに、何がヨーロッパだ。フランス語の授業も朝寝坊していたくせに)とつい思ってしまうのですが、考えてみれば、個人旅行ではなく、大学や企業の関連で国際学会やら会合などに出ていくのですから、せいぜい日本人同士で固まって行動するため、善し悪しの問題ではなく、そもそも質が違いますね。ある面、私の方が全部、一人で考えて自分の責任下で行動していたので、オリジナルだと言えるかもしれません。いわゆる業績評価の対象にはなりませんけれども、確実に自分の力にはなると思います。それこそ、昨日書いたディアナの言う「誰も奪うことのできないもの」ですから。

さて、本題に戻りますと、オランダでの彼女と別れて次の目的地マンハイムに向かうため、IC(インターシティ)に乗り込みました。相席のコンパートメントには、ユトレヒト出身だという27歳の女性ジャーナリストが座っていました。今でも何だかできすぎた話のように思うのですが、向こうからニコニコと英語で話しかけてきたので、私もつい気を許して、いろいろと話し込んでしまいました。
「どういう本を読んでいるの?」と尋ねられて、当時夢中になっていたシュテファン・ツヴァイクの名を挙げると、「ふうん、悪くはない趣味ね。私も彼のこと、好んで読んでいた時期があったわよ」と言われました。
それから、唯一、はっきりと覚えている会話内容は、男女関係の話でした。彼女から日本の私宛に、そのテーマで書かれた手紙が一通だけ届いたので、それは確かです。その点だけは、どうしても一致できず同意もできなかった話題でした。だって、その日に会ったばかりの男性とすぐに同宿して恋人関係になるなんて、その頃はエイズもまだ問題視されていなかったからでもありますが、地方出身の自宅生だった私は、本当にびっくりしたんです。正直なところ、そういう男女関係の話題がやや気になるのも、当時の私の年齢(21歳)の特徴でした。ですけれども、社会秩序や人間関係というものを、いったいどのように考えているのか、その無軌道性を今でも不思議に思うばかりです。アメリカ東部に留学していた主人がそんなタイプの人でなくて、本当によかったです。堅物そのものですから。その点、イスラーム圏のマレーシア派遣だった私も、主人から見れば同類です!よかったよかった…。
付け加えますと、ドイツのBirgitもオランダのディアナも、その頃は親元で暮らしていたこともあってか、私にそんな話を一度も手紙に書いてきたことはないし、口にしたこともありませんでした。思えば、私のペンフレンド達は、文通が長続きしただけあって、そういうタイプでは全くなく、むしろ、敗戦を経験しながらもアジアの経済大国となり、技術発展の目覚ましい日本という肯定的な角度から、私に接していてくれていたと思います。本当に幸せなことでした。これは私だけの力ではなかったことですから。
恐らくは、その女性ジャーナリストにとって、東洋人の私が、ずいぶん遅れた思想の持ち主だったと見えたのでしょう。日本について、どのような情報が流れていたのか、今では知る由もありませんが、彼女自身、とんでいる進歩的女性だと自負していたのかもしれません。
ただし、この年齢になって振り返ると、若い頃は確かに男女交際も大事ですけれども、それ以上にやはり、将来に備えて、勉強や読書や体力作りに打ち込むべきだろうと思います。基礎が自分の内にあって初めて、海外に出ても何とかやっていけるのですから。
インドネシアでのオランダ軍に対する日本の対応から、反日感情が一部に根強かったであろう当時のオランダでも、こうして個人的には、さまざまな面での交流を持たせていただいて、とてもありがたかったと思います。オランダ生まれのミッフィーが我が家に来てくれたのも、元はと言えばこういうご縁からだったのかもしれませんね。