ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アジアの聖書協会総主事(中編)

なかなか進まなかった(?)アジア各国の聖書協会総主事のお話ですが、少しずつお約束を果たせそうです。

その前に一言。2007年7月7日は、聖書やキリスト教に関連づけて、七夕の願い事の話を書きました。ただ、書いた当日、一抹の不安も残っていたんです。中国由来のこの風習が、現在の中国では、決してめでたくも何でもないということです。中日戦争の発端となった廬溝橋事件が昭和12年(1937年)7月7日に起こったことから、中国では、この日を七七事変と記憶しているからなのです。

またもや脱線。英語版のHatena・Diary(http://d.haten.ne.jp/itunalily2)では、この日にまつわるマレーシアの事例に関して、簡単に述べました。華人クリスチャンは、この日をラッキーセブンと紹介していたのですが、インド系ヒンドゥー教徒の場合は、この日に結婚するなら午前11時半前にしなければならないのだそうです。

高度に多元化した社会では、それぞれが己の絶対性や普遍性をことさらに強調することは、誤解や摩擦を生み出します。その一方で、相互尊重の名の下に、アイデンティティの希薄化、不自然な無関心、価値観を共にする人同士のみでの群れ合い、という危険性もまた否めないように思います。

余談を二つ並べたのは、「アジア」を思い浮かべるたびに、日本とは異なる感情や価値観に触れて複雑な気分になり、あまりにも自分が無知であることを思い知らされることが多いからなのです。聖書協会の話も、国際聖書フォーラム以来、毎日考えてはいたのですが、どこか気が重いこともありますね…。過去の歴史をこちらは解決済み、あるいは忘れたつもりになっていても、相手は必ずしもそう思っていないのですから…。毎度毎度、気を遣います。

それから、キリスト教系の大学で「アジアの神学」ということを盛んにおっしゃる先生もいるのですが、話を聞いていて、どうも地域の焦点さえ定まっていないような印象も受けています。これまでの成り行きから、韓国、せいぜい東アジアのことを意味しているのかな…でも、東アジアって、どこを指すのでしょう?人の行き来は激しく、言わずもがなですが、マレーシアの人達も、中国との連繋を、過去から現在まで、いろいろな形で持っています。でも、マレーシアといえば「東南アジア」と範疇化されてしまいがちですよね?「せっかくの機会ですから、‘アジアの神学’についてもお話を聞かせてくだされば、と思いますが...」と数年前に申し出たところ、やんわりと逃げられてしまいました。なぜかしら?本当のところは、アジアに関心なんてないんじゃないのかな?
と思っていたら、同志社大学神学部長の原誠先生が「‘アジアの神学’、‘アジアの神学’、と言っとる奴に限って、何にもわかっとらん!わかっとらんから、‘アジアの’なんて簡単に言うんだ」と助け船を出してくださいました。原先生は、タイのクリスチャン・コミュニティとの交流目的で、20年以上も学生を引導してタイ・ツァーを実行されてきたのだそうです。2000年前半期には、在外研究で、ラオスベトナムなどいわゆるインドシナ半島キリスト教共同体との関わりを持たれたとのことです。

本当にアジア各地の地域研究に従事されている方なら、こんな話、一笑に付されてしまうでしょうね。第一、相手にもなりません!狭間に生きる私は、両方の分野を勉強しつつ、それぞれの流派や人脈も知らねばならず、しかしそのどちらにも当てはまらない、ということで、長年悩んできたのですが…。自分のテーマに関して造詣の深い師が国内にいない、というのは本当に苦痛です。全部手探りで、不安を抱えつつ一人で資料を探り求めなければならないのですから…。

さて、遅ればせながら本題に入りましょう。「アジア各国の聖書協会総主事」のお話です。

.....と書きましたけれど、またまたごめんなさい!!!このブログ日記、自由に書いているせいで、ちっとも論理性がないですね。
たった今、6時半から8時半まで玉造にある大阪クリスチャンセンター(OCC)で開かれた、佐藤全弘・大阪市立大学名誉教授の「聖書の自然観−いま環境問題を考える−」という全6回講座の第4回目から帰ってきたところです。月1回なのですが、中高年の殿方を中心に、35名以上が集まって講義を聴いています。

2時間ずっと立ったままでのご講義はさぞ大変だろうと思いますけれど、佐藤先生は、鍛え方が違うのか、毎回、こちらが励まされるようなお元気さです。前回の「近代科学の起源とキリスト教」に引き続き、「近代科学の自然観」という今回のお話も興味深いものでした。昔、学校で習ったような話とも重複しているところがありますが、時を経た上で、総合的に学び直し新たに知るという経験は、若い頃とはまた違って、とてもおもしろいものです。プリントはB4一枚だけですが、ホワイトボードに書かれることやお話をメモするのも、このところめっきり減った漢字の手書きにとって、よい訓練になります。先生のご紹介くださる参考文献は、やや年代物とはいえ、それだけに古典的な良書なのだろうと思います。今日は、ドイツ語の文献も紹介されていました。

1回1200円なのですが、冬期の講座では、東京から全出席された方がいらしたとうかがいました。残念ながら、女性は数名と少なく、もっと残念なことに、30代以下の若い人がめったに来ていないのです。働き盛りでその時間にはまだ残業しているのか、あるいは家庭生活のために時間が割けないのかもしれません。でも、帰りの電車の中で30代40代あたりの男女を見かけるたびに、ちょっとでも足を伸ばしてくれたら、と思わずにはいられません。

この講座に出席する理由の一つは、今年3月上旬のイスラエル旅行で、ご一緒した無教会のご夫妻も毎回参加されている、ということがあります。同じ飛行機に乗り、同じバスで移動し、同じホテルで同じ食事をとった一蓮托生のご縁というものは、一生のうちでもなかなか得難いものです。あ、イスラエルの話は、今後、折に触れて書いていきますね。

ところで佐藤先生は、来月8月、上智大学で開催される新渡戸稲造シンポジウムでも、初日に導入講演をされることになっています。このシンポジウムの主催者・企画者が、実はK家の息子さんなのです。(ほとんどイニシャルの意味がなくなってきました…。)
では、今日は夜もふけてきたので、この辺で失礼いたします。明日こそは、アジア各国の聖書協会総主事のお話の核心に入りたいと思います。