ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ポーランドと日本の絆

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34062114.html


2016年3月13日


東日本大震災発生から4か月後の7月24日、被災した岩手県宮城県の子供達が2週間、ポーランドへ招かれました。
・1795年、ポーランド王国プロイセン、ロシア、オーストリアに3分割され国を失いました。屈辱に耐えていたポーランド人は自分の国を取り戻そうと、地下に潜って独立運動を始めましたが、その都度逮捕されてシベリアに送られ、絶望に耐えていました。
第一次世界大戦が起こり、ベルサイユ条約によってポーランドは独立を回復して、シベリアに流されていたポーランド人は祖国に帰れると思っていた。
・しかし、ロシア革命ソ連が誕生し、ポーランドソ連の間で戦争が始まったため、シベリアのポーランド人は帰れなくなってしまいました。
・この時、助けてくれたのが日本でした。当時、シベリア出兵していた日本陸軍の兵士と日本赤十字の看護婦が、酷寒の中、体力が弱って死を待つポーランドの孤児達を見捨てることが出来ずに救出しました。
・最初の救出は56名の孤児で、東京の宿舎に届け、以後、3年間に765名の孤児を救出しました。
・看護婦の松澤フミさんは、腸チフスで衰弱していた子供の看護をして「せめて最後は私の胸の中で」と子供を抱いて寝ていたため、自分が腸チフスに感染して亡くなりました
・この重体の子供は奇跡的に一命を取り留めて無事にポーランドへ帰国しました。これを知ったポーランドは松澤フミさんの功績に「赤十字賞」と「名誉賞」を授与しました。
・さらに大正11年には貞明皇后日本赤十字社病院に行啓され、奉迎する孤児の頭を幾度も愛撫されたり、胸に抱きしめて孤児を激励され、「健やかに育つように」とお言葉を賜れました。
・横浜から出港する時になって、今まで優しく面倒を見てくれた日本人に対して孤児達は泣いて乗船を嫌がりました。しかし孤児達は船の上から日本で覚えた「君が代」を歌いながら、日本を離れて行きました。
・平成7年、阪神淡路大震災が起きました。ポーランドの人達は真っ先に日本への救援活動を行いました。ポーランド人は日本人にしてもらった恩を知っていたのです。
・シベリア孤児だったポーランド極東委員会副会長は、このような手紙を日本に送ってきました。


「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかし、かつて日本人は不運なポーランド児童達に深い同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれました。我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない
我々児童達をしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本の子供達が、孤児の服装がみじめなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与え、髪に結ったリボンや櫛、指輪までも与えてくれたポーランド人は高尚な民族であるが故に、いつまでも日本に対する恩を忘れない民族であることを日本人に告げたい。
ポーランド人は日本に最も深い尊敬、最も深い感恩、最も温かき友情や愛情を持っていることをお伝えしたい」


・真実を知った時、我々は先人達に心から感謝し、我々もおのずと先人に恥じない生き方をするようになるのである。

(部分抜粋引用終)
ポーランドに関する過去ブログの一覧をどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%DD%A1%BC%A5%E9%A5%F3%A5%C9&of=50)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%DD%A1%BC%A5%E9%A5%F3%A5%C9