ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

自分の課題に専念

池内恵先生の書かれることは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=satoshi+ikeuchi)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C3%D3%C6%E2%B7%C3&of=50)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C3%D3%C6%E2%B7%C3)、率直で辛辣で的を射ているので、おもしろい。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=pb&hc_location=profile_browser



そもそも僕は何を書くためにこのブログを作ったのだろう。自分の動機というものは自分でもわからない。
一年半前のこんな記事を思い出した。本当は私的に、こういうことをたまに書きたかったのかもしれない。
http://ikeuchisatoshi.com/i-1111/

(部分引用終)

として、故パトリック・シールについてのブログが掲載されている。
そこで、フェイスブックに「シェア」して、以下のコメントを自分で書いた。

https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima?pnref=story


ユーリ:池内恵氏に倣って、私も本来の自分の課題に専念しようと思う。パトリック・シールと言えば、池内氏を引用して、過去にこんなブログを書いたので、ここで再掲を。シリア専門家として、パトリック・シールと正面から対決して勝利したパイプス先生の輝かしい活躍の日々が蘇ってくる。あの頃は楽しかった、私にとっても...。

http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140613

(部分引用終)

一週間ほど前のフェイスブックにも、こんなことが記されていた。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf


専門家が、宗教理念と現実の各国政治の全てを分節化しない、「イスラーム」「イスラーム地域研究」といった予算獲得上の概念を作り上げて、イスラーム教が広まっている、イスラーム教徒がいる地域全体を「イスラーム地域」と呼んで、理念の研究から各地の別個の歴史研究までを全部ひっくるめて重要性を主張し、予算とポスト獲得容易に(ママ)する運動を過去20年間に行ってきたためだ。文部科学省向けの運動をになって実際に成果を得た有力者たちは、勲章などを次々にもらって引退する時期である。しかし今そのツケが回っているのである20年ほど散々予算を使って、かえってイスラーム諸国の現実の理解を妨げるわかりにくい言説体系が構築され、それに依拠して予算とポストを得た人々による業界の秩序と支配構造ができてしまった。いまさら自分の人生の根拠を否定できないので、がんじがらめになっている。

(部分引用終)
上記については、1990年代半ばまでのマレーシア研究と、その後のイスラーム編成からも、充分、身に沁みて実感したところである。「失われた20年」は、現実だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150515)。
他の方の言葉を拝借して何かを言おうとするなんて、まさに虎の威を借る狐さながらだが、以下に別件で再度。

http://ikeuchisatoshi.com/


【帰ってきた】おじさん雑誌レビュー『中央公論』10月号は、戦後70年談話のテキスト分析から欧州の終焉まで


・「言ったことを実行しているか」を問うことこそが近代的な責任倫理に基づいたアカウンタビリティを確保するための正しい反応であり、近代的な政治システムの中での公共的議論の機能だ。
・談話が首相の歴史観の真意と違う、と追及する議論は、公職にある人間の公的発言についての、近代的な原則を理解していないのではないかと疑わせる足る議論だ。まず、首相にむやみにその瞬間の歴史観の真意などを語られたら困るのである。
・歴代の首相あるいは政治家一般は、みだりに「真意」をダダ漏れにさせてきた。国内支持者やマスコミにはそれこそが人間味であると評価されたり足を引っ掛けられてから騒ぎの種になって国際的に日本国民にとって否定的な効果を生み出しつつ、国内的にはやはり悪名は無名に勝るだとかいった、とにかくもうどうしようもない世界であった。言葉に与えられた価値が軽すぎた
・真意というよりは場への迎合なのであり、その場その場で最も上手に迎合することが日本における正しい「真意」として評価されるのである。
・スピーチライターが入って、学者にたたき台を出させて、政治的な配慮と仕掛けを凝らして、練り込んだスピーチを提示するという先進国の指導者なら誰でも毎週のようにやっていることを、日本の政治家はしてこなかった
・安倍首相というのは、某有力英語スピーチライターを第一次政権時代から重用し、国際的に作り込んだスピーチを何度も行っているという意味で、これまでの首相とは大きく異なる。
トルコやイランやアラブ世界の「親日感情」の根幹は、「遠く離れていて植民地支配をしたことがない」日本が、欧米に対して日露戦争で勝利したり、第二次世界大戦で軍事的に挑戦したことにあるのは、文献学的にも裏づけられた事実だからである。
・繰り返し絶賛しているが、有識者懇の当事者を目の前にしてこうまで言っているところは、読む方としては若干鼻白むという気がしないでもない。学者の議論の取り入れ方や首相演説の文法・語彙として、佐藤優氏の評価自体には私自身も同意するのだが、もう少し第三者的な立場での評価や議論ができないかな、と思う。
佐藤優は返す刀で言論人としての原点と言える外務官僚・キャリア官僚批判の得意舞台に持ち込んで数名を実名で攻撃して火だるまにしたりしていて、いつも通りやけに面白いのだが、雑草のような視点から政治家や検察やメディアなどの、権力者・権力に近寄ろうとする人たちと渡り合い、手玉に取り取られしてきたこの人が、安倍首相の「周囲にいる人たちが、問題アリ」という時の「周囲」には、潜在的にどこまで含まれうるのかということまで想像を膨らませると、この対談はさらに面白くなる。権力者の背後の「黒子」の立場から権力に群がる人たちを冷たく見て生きてきたこの人の目に映る世界はどのようなものだろうか。

(部分抜粋引用終)

「おじさん雑誌」については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141110)。