ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ルーツ

おととい、実家の母から、何やら古い書類の複写が届きました。
どうやって入手したものか、母方の曾祖父の戸籍謄本のコピーまで封筒にあってびっくり仰天。というのは、この歳になって初めて、自分のルーツを知ったからなのです。そして、だからこそ、主人と出会ったその日のうちに、(この人と結婚することになるなぁ、これは...)と直感したのも、ムベなるかな、と。
曾祖父の名前から、土地所有者だったということが判明。そのために、何やらややこしい人間関係もできてしまったようですが、親から何も聞かされなかったことで、身を守っていた面も大きい反面、何やら昔から、係累自慢タラタラの人々の話を聞かされる度に、一人で縮こまってしまい、損したような遠回りしたような...、名古屋大学の大学院の某教授が、「バカを相手にするな」と一言釘をさしてくださったのを、今でもよく覚えていますが(参照:http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081117)、若い頃って、結構、迷うものではありません?
それはともかくとして、妹にも早速、「うちってそういう家系だったんだねぇ」と電話すると、妹も知らなかったらしく「へ?」という感じ。まぁ、大らかなものですね。それでよかったのかもしれません。
私の学校時代は、まだマルクス主義全盛期でしたから、公教育を通して、「洗脳教育」もどきのことを試みる教師も皆無だったわけではなく、今振り返れば、階級闘争だの、差別と抑圧と搾取だの、けたたましい用語が飛び交っていた面もありました(参照:(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101229))。
それは、決して悪いことばかりではなく、カール・ヒルティがいみじくも述べたように、人間の「嫉妬」という心根にまざまざと触れる、よい機会であったとは思います(参照:(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110523))。
問題は、言葉の上でわかったとしても、どこか我が身に比して、ピンとこなかったということです。自分では、相当頭が悪いんだなぁ、と根拠なき劣等感にさいなまされていました。これも今から考えれば、親が一言言い添えれば簡単に解消できたものを、本当に変な時期を長々と過ごしたものです。
今回の件で、先の戦争によって、主人の家と私の家の方で、ルーツは似たようなものだったのに、戦災に巻き込まれたかどうかで、家運がまったく変わってしまったということも判明しました。主人の大阪の家は、もしそのまま残っていたら、結構な土地だったはずです。また、祖父母の故郷の岡山も、農地改革で土地を取り上げられなかったら、おじちゃんも大学に残って研究者の道を歩めたかもしれなかったのです(参照:(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091210)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100324)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100325))。
我が家の方は、名古屋空襲で周囲が燃えたのに対して、誠に運よく、生き残れました。亡くなってちょうど一周年になる祖母がよく、「戦後は社会がまったく変わってしまったので、学校でも教えなくなったけれど、自分がどういうルーツを持ってこの世に生まれてきたか、ぐらいは知っておきなさい」と、初孫の私に懇々とよく言って聞かせてくれたことを思い出します。他の孫達は、昔話に興味がないと言ったのだそうですが、私だけはなぜか、古い物語や古い物に昔から興味があり、そのような話を聞くと、体の奥底が温かくなるような気持ちになっていたので、正座して、喜んで聞いていました。
小学校4年生の時に、ピアノの先生から『今昔物語』をお別れのプレゼントにいただき、王朝物語、天竺物語などに心惹かれました。お話の舞台となった京都近辺を散策するのが、遠い目標となりました。
小学校の高学年には、日本史図鑑を広げては眺め入り、巨大古墳を見に行くことを、大人になってからの夢にしていました。
中国や韓国の文化については、いわゆる「韓流ブーム」ではなく、昔からハイ・カルチャーに興味を持っていました。いつかはじっくり学べれば、と願っています。
国文学科であることを誇りにしているのも、記紀万葉の時代から、日本文化の源流を文学を通して研究的に学ぶことで、その末端の小さな自分が、確かに自分であることの証明を実感できるからなのです。
祖父は、私が高校2年の時に病気で亡くなりましたが、最初に生まれた孫が女の子だったのに、全く意にも介さず、私を大変にかわいがってくれました。「娘にも教育が必要」との考えは、土地所有者だったからこそ、自然に身に付いたことでもあったのでしょう。だからこそ、以前にも書いたように、変な理屈をつけて抑えつけようとするのは、私の場合、祖父や父や夫など、身近な男性ではなく、大学院の教官とか教会牧師などの「先生」達に多かったという理不尽さが生まれたのです(参照:http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080320)。今となっては、どうしてそうなのかも、何となく察せられるのですけど。
そういえば、マレーシアにいた1990年代初の頃、ブラーミン階級の奥様と知り合いにならせていただきました。未亡人でいらっしゃいましたが、大変に著名な方でもあり、今から考えれば、もったいないような出会いであったと思います。しかし、とても気さくで、貧しいタミル系の人々の教育や福祉のプログラムを、ヒンドゥ教改革派のような立場で、指導されていました。私の方は、若かったから最初は気楽に連絡を取らせていただいていたものの、だんだんに「階層差」の怖さのようなものを勝手に抱いてしまい、一人で遠慮するようになっていきました。ただこれも、今から思えば、何も怖がる必要がなかったのに、なんてバカなことを、と。
先方は、なぜか私を気に入ってくださり、「うちの母があなたの声を聞きたいって言っているわよ。電話、そのままにしておいてね」などと、帰国フライト搭乗直前の空港からかけた電話でも、娘さんが言ってくださったことをありがたく思い出します。
結局、自分で思っている以上に、年上の方達はすべてを見抜いて、相応に遇してくださっているのですね。感謝申し上げます。