ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

呼称に気を遣う殿方達

フェミニスト運動の行き過ぎについては、20代の頃からかねがね噂をうかがっていました。
私自身、申し訳ないことに、鈍感なのか、周囲の男性に恵まれていたと言うのか、フェミニスト運動の方達のおっしゃっている主張がよくわからないままに、ここまで来てしまいました。主張の重要性や妥当性はそれぞれかと思いますが、運動の恩恵を受けてなのか、特に問題を感じなかったというのが正直なところです。
祖父からも父からも主人からも、「女のくせに」などというような抑圧を受けた覚えがなく、むしろ、挨拶やお行儀以外は、自由に好きなように伸び伸びとさせてもらったという実感を持ちながら生きてきたからでしょう。今だって、(次は男に生まれたい)とは、あまり思っていません。
それに関連して、しばらく前から私が感じているのは、特に教養層の米国人男性が、こちらに対する呼称に、ものすごく気を遣ってくださっているということです。「お好きなように、どうでもいいですよ」と正直に伝えているつもりなのに、先方は、‘Ms’, ‘Mrs.’を何度か出したり引っこめたりしたかと思うと、名前だけを書いて、カッコ付で(こう呼んでもいいですか)などと付け加えている場合もありました。何だか、本当に申し訳なくて....。
シンガポールやマレーシアや日本文化を知っている西欧諸国の年上の男性達は、最初から、私に親しみを示す意図で、名字ではなくて名前のみ、あるいは、名前に「さん」をつけて呼んでくれることが多いです。それで充分であって、何ら侮辱的だとは思っていませんし、馴れ馴れしいとも感じません。嫌な人とは最初から付き合わない上、共通項が事前に了解できているからでもあります。
昨晩、ある方とのメールのやり取りで、ちょっとおもしろい現象が発生しました。先方は喜んで私を名前で呼ぶことに決めたのですが、私自身は、女性である以上、無礼にならないように、今後も敬称をつけてフル・ネームでお呼びする旨、説明をさせていただきました。「これは私が長らく親しんできた日本の文化規範です」と。
すると、「そりゃ素晴らしい!人が丁重過ぎるに越したことはない」と同意されたものの、またもや、先方が形式ばった呼称に戻ってしまい、(う〜ん)と考えさせられたのです。
主人にこの話をすると、アメリカ経験が数年あるため、「いや、アメリカ人同士なら、親しくなると、お互いに名前で呼び合うのが普通だよ。そんな、ユーリみたいに、ファースト・ネームを目上の男性に使うことに慣れていないからなんて、いちいち説明する人は珍しいよ」と言いつつも、「だけど、教育のある人ほど、すごく気を遣っているよ。そこは理解しないと」と。
「でも、目上の男性が私をどう呼ぼうとも、私の方は敬称で呼ばなければ、かえって失礼でしょう?」と言うと、そこは強く同意していました。
なかなか微妙な点ですが、皆様はどう思われますか。学生時代までなら、西洋諸国のペンフレンドとも、かなり早くから‘Liebe Birgitte', 'Querido Pedro’なんて書けましたが、この年齢になると、さすがに難しい気がしますねぇ。
呼称についての小さな考察については、過去の「ユーリの部屋」をご覧ください(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070726)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110127)。