ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

貴重なご縁に感謝しつつ

以前から、時々マレーシアのリサーチ協力者に言われていたことですが、「外国人って、こちらが当たり前と思っていることを、わざわざ質問したり、飛行機に乗って調べに来るからおもしろい」のだそうです。日本に置き換えてみても、同じ事が言えるのでしょうか。日本語を外国人に教えていた頃、スピーチコンテストなどで、新鮮な視点に学ばされたり、興味深く思ったりしたことを想起させます。
今回のリサーチの旅で感じたのは、共に学び合い、一緒に成長していくという姿勢が、いかに大切かということです。
院生の頃、大学の留学生寮の住み込みチューターを1年半していました(参照:2007年11月2日・2008年8月5日付「ユーリの部屋」)。その時、隣の部屋に住んでいたのが、シンガポールでお世話になったDでした。彼女の話によれば、あの頃、親友のように仲良く一緒に行動していたタイやインドネシアの留学生達とは、今は全く付き合いがないそうです。新婚旅行には、プーケットに出かけたDでさえ、です。また、同じ時期にシンガポール国立大学から留学したHさん(フェイ・エン)とも、結婚式に招いただけで、その後の連絡もないとのこと。就職したり家庭を持ったりすると、それぞれのスタイルになるので、折り合えない面も出てくるからでしょうか。
そう考えてみると、Dと私のご縁も、それほど単純な成り行きではなく、ありがたく貴重な関係だと言えます。そういえば、いろいろなものをいただいています。彼女の人生の大事な節目には、なぜか同席している不思議な日本人が私のようです。政府系の仕事が合わずに退職して「プー太郎」をしていた時期、ようやく小学校教師だったお母さんが認めてくれて自分も教師に転職、教会で知り合ったご主人とのなれそめ、ご両親の反対と理解、結婚式、最初の子の誕生、二人目の子がおなかにいた時、そして今回の月餅祭り、です。
いつかは、シンガポール高島屋の地下の日本食品売り場まで一緒に買い物に行き、彼女のご両親の家で、一緒に天ぷらを喧嘩しながら作ったこともあります。喧嘩というのは、私が「そこはこうするのが日本風!」と直そうとすると、彼女が「だけど、ここはシンガポールだよ!」と応酬するなどの、他愛もない話ですが。
この度、ふと思い出したのが、20年前の留学中、華語中学校の校長だった彼女のお父さんが、シンガポールから段ボール箱に厚手のセーターを二枚か三枚詰めて、送ってきたことです。10月に名古屋に来て、学業生活が落ち着いた頃には冬でしたから、お父さんも娘が気になって、どこかで調達してきたのでしょう。隣同士だったので、たまたま箱を開けるのを見ていたのですが、(へぇ、赤道直下のシンガポールでも、こういう冬物を入手できるんだ)と驚いたことを覚えています。考えてみれば、英国支配の長く続いた土地であり、マレーシアでも英国留学する人達が多い国柄ですから、冬物を売っていないはずはないのに、どうも当時の私には、そこまで考えが回りませんでした。
学生寮の住み込みチューターを希望したきっかけは、仕事に就く前に自立した一人暮らしを経験したかったこともさることながら、若く利害関係のない学生の間に、等身大の目線で、留学生達と親しくなりたい、という気持ちが強かったからです。本で読んだり、テレビや新聞で報道されたりする外国ではなく、私と同じように、各国の普通の中流家庭で育ち、大学で学んでいる人達の考え方や生き方に触れたいと願っていたのです。(このチャンスは、院生の今しかない!)というわけで、クラスメートだった中国の男子留学生(今も日本に在住で、立派に大学の先生をされています!)から、寮の仕事内容を教えてもらい、早速、大学の面接を受けました。志望動機を上記のまま素直に語ったところ、すんなり合格。他のチューターは、いろいろ聞かれたそうですが、私の場合は、ほぼフリーパスでした。むしろ、「日本語教育専攻の人が入ってくれて助かる」と、事務担当者の間で話題になっていたと、後で聞きました。
あの頃知り合った人達と、必ずしも今も付き合いが続いているわけではありませんが、本当に、Dの場合は、奇遇でもあります。私のように、どちらかと言えば、部屋で本を読んだり、勉強したり、音楽を聴いたり、家事をしたりしているのが好きな非社交的なタイプが、どうしてこんなに、マレーシアやシンガポールで、人々に親切に助けてもらえるのかわかりません。恐らくは、戦後生まれの日本人であることの利点も働いているのでしょうが、ここまで無事に過ごせたことは、感謝以外の何ものでもありません。
今回は、到着当日に、スマトラで大地震が発生。空港まで迎えに来てくれたDが教えてくれなければ、知らずに翌日を迎えていたでしょう。シンガポールでは地震はない、と言い切ったDでしたが、いいえ、私は揺れを確かに感じました(さすがに、地震国の日本人!今朝も6時前に、震度2の揺れを経験しました)。こういう時、現地に家族ぐるみで二十年も付き合いがある友人がいてくれることの重要さを覚えます。日本大使館は、そこまで面倒を見てはくれないでしょうから。
また、出発の少し前に、バリで30代の日本人女性がホテルで殺害された事件も報道されていました。(観光地のバリだから、気が緩んだ女性が何かしたのだろう)と内心思っていましたが、シンガポールでも話題になっていたらしく、そのことも引き合いに出して、マレーシア行きを心底、心配してくれました。
こちらはこちらのスケジュールで勝手に決めた訪問日程だったのに、偶然にしては出来過ぎているほど、うまく運んで驚いています。Dが、夕刻到着したチャンギ国際空港まで、11歳と8歳の娘さんを一緒に連れて迎えに来られたのも、翌日が「子どもの日」とかで学校が休みだからだ、とか、月餅祭りが滞在中に重なっていたとか、マレーシアでも、ディパパリの近い時期だったために、インド系の友人にタイミング良く挨拶が送れたことなど、ありがたく思います。
昔と違って今では、インターネットで現地の新聞が毎日読めるので、つい、カレンダーを忘れてしまうのですが、やはり暦は大事ですね。それにしても、よかった、よかった。