ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『ヘラルド』デジタル化の話

マレーシアのカトリック週刊新聞『ヘラルド』が、今月あたりから、ほとんどの記事をウエブサイト上で読めるようにしています(『ヘラルド・マレーシア』(http://www.heraldmalaysia.com)と名称変更)。
以前から、サイトそのものはあったのですが、タイトルを見て記事をクリックしても、支払い申し込みフォームの画面が出てくる仕組みであり、全文を読むことはできませんでした。当時プタリン・ジャヤにあったオフィスで相談すると、「紙媒体の方が割高だけど、内容がいい」と言われ、その場で小切手を切ったのでした。それが2006年11月28日。(ちなみに、その時の担当者Mr.Michael Tanは、今年2月にお亡くなりになりました。)
もちろん、その後も購読継続の手続きが向こうから請求されました。その時には、余分にお送りした金額がしっかりと献金枠に組み込まれたようです。おつりはありませんでした。
ところが、お金を払わなくてもフリーで全記事が読めるとなれば、日本にいる私も、わざわざ海外配達を待つ必要がなくなります。そこで、遠回しに編集長のFr. Lawrence Andrewとジャーナリストのインド系女性に尋ねてみました。「最近、ウエブサイトのヘラルド紙が非常に向上し、ほぼ全部オンラインで読めることになりましたが、では、海外読者が紙面配達を待つメリットは何でしょうか」。
すると、お忙しいはずなのに、編集長から早速お返事。もっとも、上記日付でお目にかかって内部資料を見せていただいた経緯があったからでしょう。「メリットは、いつでも取り出して読めることです」。
思わず笑ってしまいました。面と向かっての会話なら、「でも、デメリットは場所をとることです」と言ってしまいそうな...。尋ね方が悪かったのでしょうか、何だか子どもとのやり取りをされたようでした。
いえ、私が言いたかったのは、それならもう海外読者として、購読料を支払うことはやめて、いつもオンラインで読んでしまいますよ、という意味だったのですが。
「新政策は了解いたしました。でも、神父様、無料で記事やニュースをウエブで流すと、編集上の努力が無駄になるよう悪用される可能性を私は恐れているのですが....。やはり、アクセスした人から徴収する必要もあるのではないか、と」。
すると、期待してもいなかったのに、またお返事が届きました。「大丈夫。私達の編集の質は維持します。なんたって、マレーシアで最大のキリスト教共同体なんですから、私達こそが先導してウエブ世界に参入したのですよ。イエスのメッセージを伝えるためなら、何だってしますよ」。
う〜ん、それはどうでしょうか。福音派組織だってプロテスタント主流派だって、もう何年も前からウエブサイトで情報を公開しているじゃないですか。どちらかというと、カトリックの方がおっとりした感じで、プロテスタントの方が、記事も細かく素早い対応をとるような印象を持っていますが。
一つ考えられるのは、最近ヴァチカンを訪問したというFr. Lawrence Andrewのこと、彼の地で助言ないしはヒントを受けた可能性がありそうです。というのも、内務省から「神」の名の問題でマレー語版『ヘラルド』を発行許可させないとかなんとか、一昨年あたりから騒ぎになり(参照:2007年12月20日・12月25日・2008年4月24日・5月5日・8月21日・2009年2月28日・3月2日・3月3日付「ユーリの部屋」)、延々と議論が続いているため(昨日も記事が出ていました。参照:“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090407))、マレー人役人のご機嫌次第でどう扱われるかわからない紙媒体よりも、国外の確実なサイトを利用して、パソコン上で自由に情報に接することができるように方向転換しよう、ということなのではないでしょうか。しかし、それにしても、皆が皆、パソコンを所持しているわけではないマレーシアで、(この日本でもまだ、という人がいる!)情報の行き渡りをどうお考えなのでしょうか。ボルネオ島の奥地の先住民族のクリスチャン達など、自分達の文字で聖書もまだ持っていない、という人々もいるというのに...。
マレー人政治家やムスリム宗教指導者が『ヘラルド』の件で「それはマレー人をキリスト教化する意図に違いない!」「ムスリムを混乱させる試みだ!」などと反発する度に、Fr. Lawrence Andrewは、「ムスリムのためではなく、カトリック共同体を教導するための新聞発行です。これがなければ、我が国のカトリック信徒達は、どうやってカトリック信仰を養い、カトリックの物の見方を学び、カトリックの国際情報を知ることができるんでしょうか」と落ち着き払って返答していらしたのですが。

それはともかく、同様の理由で、本件の問題に関して、自分達の「苦境」を世界中の人々に広く知ってもらい、できれば味方につけたい、と願っていることも考えられますね。

そして最後には、結局はデジタル化が世の流れなのだろう、という結論に落ち着きそうですが、果たしてどうなることやら。
でもなあ、私、これまで結構苦労して紙媒体を集めてきたんですけれど...。教会内でしか売られていなかった頃、がんばってミサに出て行って、1リンギ払って買い求めていたんですが。あの頃の記事では、到底発表にも論文にも不足で、ここまで待ってきたのですが、その意義があったのかどうか、だんだんわからなくなってしまいました。