ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

内田光子氏のスカルラッティ

https://twitter.com/ituna4011


Lily2‏@ituna4011


内田光子モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番&第25番』 ユニバーサル ミュージック (https://www.amazon.co.jp/dp/B01K24FJVS/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_U4ehyb87GW8S3 …)をサイン・カード付きで昨日、大阪のシンフォニー・ホールで購入した。内田光子さんのスカルラッティのアンコール曲が何とも思い出深く、沁み通った。


・『赤と青のガウン』 彬子女王https://www.amazon.co.jp/dp/4569823505/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_I1ehyb96PP5F9 …)を近所の図書館から借りた。理知的で勉強好きでハキハキと物をおっしゃるお人柄が好きで、エッセイなども興味深く拝読していた。ご著書は初めてだが、楽しみにしている。

(転載終)
一昨日(上記の「昨日」は間違い)は、シンフォニー・ホールで内田光子さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090628)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140606)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150128)とマーラー・チェンバー・オーケストラの日本ツアー・記念演奏会へ行ってきた。主人は平日で勤務なので、私一人でB席を購入し、バルコニー席に座った。
案の定、A席は3000円も高いのに、正面なので、ピアノで弾き振りとなれば、ずっと背中だけを見ていることになる。私はギリギリに電話でチケットを申込んだのだが、見事にピアニストの表情もオーケストラの楽譜もしっかりと拝見できる良い席だったのは、実に幸いだった。
内田光子氏の演奏会は、忘れもしない、2014年4月9日のカーネギーホールでのリサイタル以来(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140516)、二度目。あの時のニューヨークの聴衆の雰囲気は、日本人としてよりも、欧米文化の一人のピアニストとして、仲間のようにごく自然に受け入れられていたのが印象的だった。私はと言えば、場違いだが日本人の一種だからと自分を奮い立たせて、主人が予約してくれたチケットを握りしめて、一音一音を耳に焼き付けるように集中して聴いていた。あの曲は、今でも忘れられない。
今回は大阪だったので、前回、私が太平洋を渡ったのとは逆に、お迎えする側であった。シンフォニー・ホールの冊子を読んでいると、海外の著名な演奏家達が異口同音に「大阪の聴衆は温かい」と評している。普段はあまり気付かないが、内田光子氏の場合は全く同感であった。
札幌、東京、豊田市、大阪の8回の公演のうち、豊田と大阪は一日のみ。非常に貴重な機会で、しばらく迷ってはいたが、思い切ってチケットを入手して正解だったと思う。
また、ホールの入り口には警官と男性のホール係が何人か待機していたので、普段よりも警戒が厳しいのだと思った。
プログラムは以下の通り。

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調 K459
武満徹:弦楽のためのレクイエム
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466
[アンコール曲]スカルラッティソナタ ニ短調 K9

やはり、年齢層は中高年が中心だったのが、残念といえば残念。一階席の前部はほぼ満席だったが、後方は7割5分弱だったか。でも、最後にはスタンディング・オベーションがあちこちであり、非常に熱のこもった良い演奏だった。
但し、楽章と楽章の合間の、待ちかねていたかのような咳払いの合唱は、内田光子氏も腕組みをして(違うんじゃない?)という表情をされていた。あれは音楽が続いている空間の間なのに、なぜ皆、一斉に咳き込むのだろうか。
ともあれ、情熱的のみならず、哲学的で深い解釈が内田光子氏の特徴で、恐らくは、私自身の年齢が上がったから、会場に足を運べるようにもなってきたのだろうかとも思う。
じっと演奏の表情を見つめながら、しばらく前にドイツ語と英語のインタビューを映像で拝見していたことも、合わせて思い出した。
それなのに、前々回のブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)に記したような奈落の底に突き落とされたような精神状態だった過去もあるという矛盾ないしは不条理も、同時に思い出していた。
というのは、アンコール曲のスカルラッティソナタニ短調 L413 K9)は、私もレッスンで練習したことがあるからである。それも、お茶を必死で習っていた頃と同じ時期で、今手元にある楽譜には、1995年8月21日と96年5月29日の日付が鉛筆書きで記してある。
マレーシアから帰国して、何が理由なのか不明なままに、大学でも家庭でも、自分の居場所がないどころか、突き放されたような事を言われると、どこにいて何をすればよいのか、本当に困ってしまっていた。あれこれ血迷った挙句、昔から習っていたピアノに戻ることで、まずは自分の精神の立て直しをしようとも考えたのである。
「それほど余裕があるのか、論文を書け」「話は学位を取得してからだ」「専門に集中せよ」と皮肉も言われそうだが、そうではない。預金通帳を見て、電卓で計算をして、貯金を少しずつ崩しながらであっても、今でなければ、永遠に機会は巡ってこないとも感じていたのだった。(そして、実際にその通りになった。)
当時も今も思うのは、大学とは、専門性は高いのかもしれないが視野の狭い人の集まりでもあり、世間を知っているようで知らないのでは、ということだ。だから、さまざまな分野で揉まれないと、本当に人生が途中で断ち切られるような、絶壁に追いやられているような感覚だったのだ。
大袈裟だと思われるかもしれないが、山内昌之先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090820)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)の『イスラームアメリ』を読むと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161030)、私の知る学的環境や制度の根本的な問題を示唆されているようにも感じるので、決して私の場合が特例だとは言えないと思う。感受性の問題はあるかもしれないが、人には言っていいことといけないことがあり、当時は特に、その境界線がなし崩しになっていたようでもある。
ともかく、音大卒の主婦のお二人と一緒に、グループレッスンということで、愛知県立芸術大学の名誉教授の先生に習うことになった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100430)。この女性の先生は軍人家庭のお育ちで、ご主人も放送関係のお仕事でいらしたので、視野が非常に広く、ピアノそのもの以上に、私にとっては一面、救われた感じがあった。
マレーシアで仕事をしたことが、あたかも経歴の傷であるかのように言われたので、すっかり自分を卑下していた私だったが、「あら、マレーシア?緒方貞子さんも、あのお歳でよくやっていらっしゃるわよね」という会話から始まり、母校の一部の先生方のような矮小化したご見解ではなかったのが、今でも心から感謝申し上げる次第である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BD%EF%CA%FD%C4%E7%BB%D2)。
また、待ち時間に専門の論文を読んでいた私の状況も察知されたようで、楽譜のコピーや割引価格の利用も許してくださった。その頃は既に、ピアノを習う層の全盛期が過ぎていたので、大人のためのピアノ教室のような名目で、私も入れてくださったのだった。
今から思えば大胆極まりなかったのだが、やはり未婚だったことと、三十歳前後というギリギリの年齢だったことで、ご寛大に接していただけたのだろうとありがたく思うことである。
この時も、お茶と同様、緊張に緊張を重ねるレッスンだった。というのは、音大卒の方達は、やはり練習量が最初から違う上に、持参の楽譜も指定される曲も高度だったからである。でも、それが私には良かった。自分を相対化し、趣味と専門は違うのだという厳しい差異を、身をもって知ることになったからである。個人レッスンでは、先生は他の生徒さんのことをおっしゃらないので、自分のことしか見えないのだ。
そして、このスカルラッティも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101106)、同じ楽譜を使いながらも、私には難易度の低い曲を与えられ、他のお二人は複雑な曲を指定されていた。
今振り返れば、同じ楽譜なのだから、先生も配慮してくださっていたのだろうし、普通大学の出身で海外(途上国)から帰国して間もないので、それほど下がる必要もなかったはずなのに、私は(こんな子ども用の曲をお聞かせすることになってしまい、申し訳ない)と思っていた。
子ども用の曲ではなく、内田光子氏がアンコールで堂々と披露される曲なのだ!
...という過去の内面も重ね合わせながら、耳を傾けて集中していた私だった。