ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ドイツ語院試の思い出

今日の英語版ブログ日記では、ウクライナ出身の詩人によるドイツ語詩を載せました。この方は、ご両親を強制収容所で亡くし、戦後パリに定住した大学教員でしたが、最期はセーヌ河に入水しました。よろしかったら、どうぞご覧ください。(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/)

ドイツ語と言えば、昨日、主人との会話でこんなことを思い出していました。目にとまった電車の広告から派生して、「大学院入試で第二外国語科目にはどんな問題が出たか」という話をしていたのですが、理系の主人に言わせれば「院試の第二外国語なんて、簡単な問題しか出なかった」とのことなのです。主人は学部を首席で卒業したので、そういう発言が出るのですが、私にとっては必死の思いでした。というよりも、私は小さな頃から、何事もいつも一生懸命取り組まなければ、何の結果も出ないタイプなのです。そのため、英語はともかくとして、いくら好きなドイツ語であっても、何をどのように勉強しなければならないか、考えただけでも身の縮む思いをしていました。

旧西東両ドイツのペンフレンドとドイツ語で文通する、ラジオドイツ語講座を毎日聴く、ドイツ語の大学院入試問題集を解く、ドイツ語の新約聖書を朗読する、などはずっと続けていましたが、(これぐらいのことは、独文科の学生なら誰でもしていることだろう、国文科の私は、一体どうすればいいのだろう)と焦ってばかりいました。

今の若い学生さん達が、あっけらかんと「院に行きます」と屈託なく答えるのを聞くと、隔世の感を覚えます。私の頃は「女の子なら短大で充分、その方が幸せに暮らせる、下手に勉強好きだと嫁に行けなくなる」などとまことしやかに語られていたので、大学院入試などは崖から飛び降りるぐらいの覚悟でした。

切羽詰まってベルリッツという語学学校の門をたたき、「集中してドイツ語の力をつけるための講座を」と相談したのですが、丁重に断られてしまいました。「ここはドイツ駐在を予定されている方や、ドイツ留学でドイツ語の会話力を高めたいという方達のためのものです。あなたは、残念ながら該当しません」と。(ひゃあ、こりゃダメだ)とますます必死の思いで独学を続けることにしたのですが、今でも当時の気持ちがまざまざと蘇ってきます。今なら、インターネットでドイツ語放送も聴けますし、ドイツ語の新聞も雑誌も自由に読めて時間が足りないぐらいですが、その頃は、そういう恵まれた環境は、外国語大学で専攻した人が中心だったように記憶しています。

ところが、本人の心配をよそに、実際の入試問題は、拍子抜けするぐらいあっけないものだったのです。

中国語、韓国語、フランス語なども第二外国語に開かれていたので、それぞれの受験者が各部屋に分かれて試験を受けることになり、私はドイツ語の部屋の前で緊張しながら待っていました。名前を呼ばれてドアをノックし、中に入ると、日本人のドイツ語担当の先生とドイツ人の紳士が二人、正面に座っていらっしゃいました。

名前をドイツ語で言うように指示され、それは問題なく通過。次は何だろうと思っていたら、ドイツ語の文章が書かれたカードを手渡されました。新聞の論説文か何かから数段落抜粋したもので、「しばらくそれを黙読しなさい」と言われました。まずは知らない単語がないかどうかを確認。意味がとれるかどうかをチェック。わぁ、どうしよう…と、ドキドキしていたら、「では、その文章を音読してください」とのこと。音読ぐらいは、ドイツ人から届く手紙もいつも声に出して読んでいたし、ラジオ講座も音読コーナーがあるし、聖書だって朗読していたので、なんてことはありません。急に安心感に満たされて読み上げていたら、途中で「はい、もう結構です」とニコニコ顔で言われてしまいました。(あれぇぇ!最後まで読ませてもらえなかった。どうしよう。もう、ここはあなたの来るところじゃありません。場所を間違えましたね、ということかなぁ…)と気持ちが萎んでくるのをやっとのことで抑えて、頭を下げ、ドアをゆっくり閉めて出て行きました。「訳しなさい」と指示が出るのかと思って身構えていたのに…。ま、いいか、人生ってこんなもの。あまり背伸びしない方がいいんだ、とすっかりふてくされて、控え室に戻り、全く関係ない本を広げて、次の人生設計を練り始めました。

結果は合格だったのですが、発表の番号がどうしても信じられず、表から見たり裏から見たり、を何度か繰り返していました。半年後に「あの程度で、本当にうかったんですか?」と言語学の先生の前で口走ったところ「そんなことを言うなら、今からでも落としましょうか」と言われてしまいました。

ついさっき、主人にこの話をすると、「そりゃ、そんなことを先生に言ったら、そう言われるのは当たり前だよ」という返事が返ってきたのですが、どうしても意味がよくわかりませんでした。自分では、真っ正直に素直な気持ちを伝えたまでなのですが…。

そういえば、9.11事件の前、神学部のある先生の所へ、マレーシア関連の話でご挨拶にうかがったことがあります。その後に先生からいただいたメールには「聖書を読んでいることに感銘を受けました」と書かれていました。「言外の心を読みとれ」との教えに従い、(これは、読み方が足りませんね、と言われているのだろう)と深読みして、すっかり萎縮していました。神学部なら、聖書に精通している方達がゴロゴロいる所だろう、と思い込んでいたからです。実態は、そういう人も確かにいますが、そうでない人も…。

もうこれ以上は書きません。でも、一般人の中に、こういうことを感じながら日々を送っている者もいるのだということだけは、特に今の大学の先生方にも、是非知って頂きたいのです。
追記: 主人−それ以上書くと、嫌味だよ。 ユーリ−これはカタルシスなの。