ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ゆとり世代の弊害と国力低下

ゆとり教育世代の弊害と国力低下についてだが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161214)、そもそも、この「ゆとり」発想は、社会主義的な教育観から出たものだろうと思われる。
「自分の(担当)仕事さえやっていればいい」「働いてお金が入ればいい」「自分一人ぐらい、大したことはないだろう」という安易な発想は、この教育観の成れの果てだとも言える。

先週半ば、アマゾン日本からメールが入った。何者かによって不正アクセスが9件見つかったため、カード支払いをチェックせよ、ということだった。

結末を先に書くと、最終的に解決を見たのが一昨日だった。二泊三日の国内旅行(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161213)の間を省くとしても、この年末の忙しい時に、連日何日間にも及ぶ、何時間もの無駄なメールと連絡電話のロスは、甚大なものである。
当然のことながら、カード会社にも即座に連絡するのだが、そもそも、不正アクセスを自分で確認しなければ、カード会社も私の話が信用できない。

だが、確認しようにも、自分のアカウントのパスワードが「正しくない」と嫌になるほど表示されたので、中に入れなかった。

何が問題だったか。不正アクセスを私に知らせた直後、アマゾン側が私のアカウントのパスワードを止めたのだ。

その処置は適切だったのだが、電話窓口に出た計8人ぐらいは、男女とも、私に対して、「その不正アクセス・メールも詐欺の可能性があります」「本人確認をお願いいたします」「こちらでは如何ともし難いので、まずご自分のアカウントで確認してください」「今、メールを送りましたので、パスワードをご自分で更新してください」の繰り返しだった。しかも、一回電話をする毎に電話に出る人が変わるので、本人確認の名目で、何度も何度も、自分の名前やメール・アドレスや住所を恥ずかしいほど繰り返させられるのだった。

その上、同じ話を15分以上もかけて話させられる。その挙句、「セキュリティの関係から、お答えしかねます」などと、ふざけた回答をよこすのだった。

メールでも、指示が出たり、お詫びの言葉があったりするのだが、言葉遣いが丁重なようでいて、回りくどい。それに、指示通りにパスワードを入力したり、電話をかけたりしているのに、上記の繰り返しで、毎度、振り出しに戻るのだった。しかも、電話内容は録音をしているというのに、正確に意味が理解できていないようで、少しずつ応答がずれていく。
ただでさえタイマーを使って毎日家の中でも走り回っている私は、はっきりと怒鳴りつけてやった。
「ごちゃごちゃ余計な話をしないでください!私の用件は一点のみです。私のアカウントのパスワードを使えるように、即刻、ウェブサイトを修正してください!」
すると、「ご本人かどうかを確認しませんと…」と来る。
だから、録音を確認すれば5秒の話。本人がこんなに困って電話を怒ってかけている上、長々しい形式的なメールのやり取りも無駄だったと、わかるでしょう!
あたかも、私に非があるかのようだった。

最終的に、少し地位の上の人が出たようで、「調査して30分後にお返事します」。
そうそう、まずはそう来なくてはいけません。

その結果は、全く気の抜けるものだった。実は、アマゾンが私のアカウント・パスワードを使用不可能にしたまま、「ご自分でパスワードの修正をお願いいたします」とメールでも電話でも繰り返していたことが判明した。
これにより、通常の会社ならば、即刻、始末書扱いということになるのだが、ビジネスとしては大損でもある。

「解除してください」という言葉を私が用いなかったために、電話をたらい回しにしていたのだろうが、そもそも、こちらは不正アクセスの被害者なのである。

要するに、マニュアル通りに動けば仕事(及び賃金)になるかと言えば、それは「仕事ではない(から収入も低いのは当然だ)」と断言できる。

小学校時代の基礎力がないから、成人してからの応用力もない。

これほど何度も怒って電話をかけてくる同一人物の被害者に対して、「まずは本人確認を」とますます苛立たせているのは、アマゾンなのだ。

「働く」とは、昔から「傍」を「楽にする」ことだと、公立小学校の朝礼で校長先生か教頭先生がお話になっていた。一方、今の時代で「働く」とは、なぜか「イキイキと輝く」ことらしい。

昔の小学生向け講話が「公共精神」を養うものであったとすれば、今の政府標語は「エゴ中心」を促進するものである。

もう一点付け加えると、この責任を問われて解雇されそうになる電話受付係が出たとしよう。その場合、左派弁護士の入れ知恵によるかのような契約法律を持ち出して、「解雇禁止」の「不服申立て」をするかもしれない。だが、本来、仕事というものは、自分の暮らしのため以上に、世の中に役立たなければ意味がない。だから、自分の責任が負えず、能力もないとみなされれば、切られても仕方のないという厳しい暗黙の前提が人間社会にはある。
左派思想のいい加減さは、そういう甘ったれを増加させているところにもある。