ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

加藤静一文集『十年経たるか』 (1)

「最近の社会状勢は特に厳しいものがあり、就職難も深刻になってきていることは教師の親心としても誠に胸の痛む思いであります。しかし、人間到る処青山在りの気概をもって難局に挑戦し、新生面を打開されるよう切望するものであります。
 今や交通機関の発達に伴い地球は狭くなり、「世界は一つ」という連帯感が強くなっています。我々は祖国日本の伝統を尊び、祖国の為に尽すということを忘れてはならぬのは勿論でありますが、一方に広く国際感覚を養って、いわゆる島国根性から脱却して、世界人類のために貢献することが要請されます。」

(『信州大学学報 第289号』「昭和52年度卒業式における告辞」昭和53年4月1日)p.110 

「これからの大学生活は、諸君にとって積極的自主的な人間形成の場であり、消極的な態度は許されぬものであります。」
「時間を忘れ、我を忘れて学びの道に没頭し沈潜することこそ大学の本義と称すべきであります。」
「あらゆる事態に対処して、屈せず撓まず耐久力のある弾性を内蔵したものを要望するものであり、....」
「大学の自由濶達な天地において、良き友・良き師に恵まれ、良き人間関係のなかに、充実した青春の日々を送られんことを心から祈念して告辞といたします。」

(『信州大学学報 第290号』「告辞」昭和53年4月13日)pp.111-112 

「多くの日本人知識階級の人がそうであるが、私も昔の中学以来、英独2カ国語を随分熱心に勉強したものである。しかし、日本人の通弊として会話能力には欠けるものであった。眼科医になってから北支那(私は中国という表現は固有名詞としてはおかしいと思う。支那と言うのは蔑称でもないと思うんだが)山西省太原で2年半、軍属として現地人の診療に当ったのであるが、その当時もっとも熱心に支那語を勉強したもので、軍医将校のある友人は私に言った。「君がいまさら支那語を習うよりも、彼等をして日本語を習わせるべきである」と。言や壮なり、私は言った。「君は軍人だ、剣をもって支那大陸を征服しようとするならば、彼等に日本語を強制することも認められるかも知らんが、俺は軍人じゃない。医師として彼等と出来るだけつき合ってゆきたい。そのためには彼等の言葉を習得したいんだ」と。今でもこの問答は私の脳裏に焼きついている心地がする。八紘一宇などというスローガンが用いられていたころであるが、民族固有の言葉を無視するという考え方は許されぬところである。」
(『ロータリーの友 No. 6』「私の体験」昭和53年)p.121

(参照:2008年4月22日・2008年8月6日付「ユーリの部屋」)