ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

自己防衛か自己受容か?

去年の今頃は、イスラエル旅行の準備に追われていたことを懐かしく思い出します。私の場合、準備とは、服装や持っていく荷物のことではなくて、イスラエルに関する書物を集中して読み、ノートにまとめる作業のことでした。出発前と帰国後の数週間で、計30冊ほどのイスラエルパレスチナ・聖書学・イスラエルの文学関連の本を借りたり買ったりして読んでいました。その他にも、インターネット上でテル・アヴィヴ大学の論文集を探して読みふけっていました。今思い出しても、そうした熱中期というのは、我ながら感心してしまいます。本当に関心がなければ、なかなかここまでのエネルギーが出てこないからです。

ちょうど当時は、エルサレムの「岩のドーム」と呼ばれるエル・アクサ・モスク(マレーシアの新聞表記では「アル・アクサ・モスク」だったのですが、イスラエル当地での表示が「エル」となっていましたし、ガイドさんもそのように発音されていました)近くの工事の問題で、マレーシアでもマレー人が揉めていた時だったので、興味半分、緊張少し、まずは実態観察を、といった気分でした。

思えば、錯綜した気分の中でバタバタと決定した旅行でもあったので、わくわくしていたというより、(私が行っても大丈夫なのかな。ずいぶん贅沢な主婦だな)という申し訳なさの方が先立っていたかと思います。ただ、今になって振り返ると、あらゆる意味で最もよい時期に行かせてもらえたことに、感謝の念が尽きません。それは、このブログのそこかしこにも表れていることと思います。ところで先頃、神戸から、90人の大所帯で一週間のイスラエル旅行を楽しまれているとの由、ご連絡をいただきました。団長さんはじめ、ガイドさんも大変でしょう。病気になる人も出そうですし、集合時間がどこか間延びしそうな大人数だと思います。私達の時には、最大25人がイスラエル旅行にはちょうどよいと、ガイドさんからも主催者からもうかがいました。

神戸と言えば、先月のバイブルハウスでの白方誠彌先生のお話に、「クリスチャンでないお医者さんは、自分の立場を守ろうとしてディフェンシヴ(自己防衛的)になる傾向がある」というご指摘がありました。例えば、最近のインフォームド・コンセントに関して、経験の少ないお医者さんの場合は、その病気に関する専門文献をたくさん患者さんの前に持ってきて、後で患者さんに訴えられると自分が困るからと、知るところを全部説明しようとして、かえって患者さんが「私、素人ですから判断できなくて、困るんです」というような事例があったそうです。
そこから私なりに理解したところでは、全知全能の神に対する揺るぎない信仰があれば、自分のことを自分で守らなくとも、最終的には神ご自身が裁きをなさるであろうという安心感を信仰者は持っているものだという前提で、先生はそのようにおっしゃったのかと思われます。

大変申し訳ないのですが、個人的には、経験上、必ずしもそうとは限らないこともあるのではという気がします。
熱心なタイプのクリスチャンには、律儀というのか、ある指摘を受けると非常にこだわり、ムキになる人もいないわけではありません。その反対に、10数年ほど前の例ですが、キリスト教関連の文献や情報ならば信じるけれども、それ以外の世俗的な情報や文献は二の次か、あまり信頼を置かないというようなクリスチャンも、周囲にいました。専門的に見れば、その人の依拠したキリスト教文献の方が、データも古くかなり不正確だったのですけれども。信仰の純粋性に重きを置くと、そういう面も出てくるのかなと思った次第ですが、似たような態度は、マレーシアのムスリムの間でも見かけたことがあります。ムスリムの言うことや書いたものなら信用するけれども、非ムスリムなら距離を置くという態度です。その辺は、宗教によるものなのか、個人の資質によるものなのか、判断はなかなか微妙なところです。

ちょっと話がずれるかもしれませんが、例えば私など、生い立ちからも性格的にも、自分の守備範囲であれば、何事も割合こまめにメモをとったり、書類を複写したりして、記録を保存するのが好きです。一方で、それを他の人々がどう感じるかは人それぞれであり、また状況にもよるのではないかとも思います。ある人は(何でも記録するなんて不愉快だ)(面倒だからしたくない)と感じるかもしれませんし、あるいは(メモ魔だね)(いい習慣を持っているね)と考えるかもしれません。また、若い頃の私は「自己防衛的だ」と、よく同僚に笑われていました。完全主義的なところがあると専門家から指摘されたこともありますが、これは、親の育て方による面が大きいかと思います。

そこから考えると、クリスチャンかどうか、あるいは信仰者かどうか、という問題ではなくて、むしろ、その人にとっての自己肯定感のような一種の自信の有無なのかなと思うのです。例えば、冒頭の事例に関連して、最近問題になっている過酷な医療現場の件があります。医師や看護師の方々がいくら懸命に努力しても、空しい結果に終わってしまうのは、残念ながらあることです。それでも患者さんやご家族から「法廷で争う」などと持ち出されると、たまったものじゃありませんから、最初にお断り申し上げる、という防衛的な態度になってしまうかとも思います。
聖書には、「神の怒りに/裁きに任せなさい」「隠れたところの父(神)が報いてくださる」ということばが出てきますが、キリスト教内でこそ、内輪争いがあった/ある面も少なくはなく、また、黙認が事態の悪化や停滞を招いている部分も含まれるのではないかと思います。

なんというのか、自己の限界を認めた上で、全力を尽くし、一つ一つ誠実に事に当たるしか方法はないのかもしれません。そして、最終的には「許し/赦し」というところに落ち着くのかなとも思うのですが、これも両刃の剣で、現実には、なかなか複雑な局面があり、難しいですね。

(追記)以上の文面で一部に誤りがありました。白方先生のおっしゃっていたのは、配布レジュメによれば「患者と医師の信頼関係の中心は『愛』である。この愛は、正にキリスト教の『隣人愛』である。愛が無ければ、インフォームド・コンセントが、患者と医師の自己主張、自己防衛に陥る危険性がある。」とのことでした。そして、書き取ったメモを読み返したところ、「自分の持てる全力を尽くして相手を救うにはどうしたらよいか」という観点から、愛がなければことばの上のみの説明で終わってしまう、というお話だったようです。そして、「ヒューマニズムでもいいと言われるが、キリスト教信仰によって『この人のために命を捨ててもいい』と思えるぐらいの医師が増えないと。頭の中でどこか雑念が浮かぶようではダメ。例えば、儲けることをチラチラと計算して、この検査すれば儲かるとか。最近はそれが多い。医療政策が悪い。」とのことでした。
そうしてみると、先生の世代やその周囲にいらっしゃるドクターはそうであっても、自分も含めて私の周囲はそうではなかった、ということになるのかもしれません。