ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

旭川−故三浦綾子さんのこと―

ちょうど2013年5月20日付大阪版の『朝日新聞』夕刊から、三浦光世氏のインタビュー連載が掲載されました。以下の文章は、5月15日から16日にかけて、ワードに下書きとして入力してあったものです。この旭川編で、北海道旅行記はようやく幕を閉じそうです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130506)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130510)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130521)。(2013年5月20日記)
三浦綾子さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100706)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110510)の未亡人(?)の光世氏が日本キリスト教団向日町教会に講演で来られた時、お目にかかっている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081110)。牧師の説教ではこれほど人が集まらないのに、世間に名が知れるとはこういう集客力を持つということだ。
実際の光世氏は、「もうしばらく前に講演旅行は止めたけれど、教会からの招待なので」と、わざわざ元秘書の女性を連れての来京だった。その女性とまるで漫才のような楽しい掛け合いで、本当にお話上手な茶目っ気のあるおもしろい方だと思った。もしかして、綾子さんの影に隠れて、ある一側面が美点として拡大評価され、別の良い面が気づかれないままに後退していたイメージだったのかもしれないと思った。
講演終了後、一冊、本を買い求めて長蛇の列に並び、光世氏にサインしていただいたが、「学生時代、よく読ませていただきました。うちの主人も綾子さんと同じ病気で…結婚一年後に発病したんです」と申し上げると、実はご夫妻の方が絶対に生活上は大変だったはずなのに、大袈裟に「あれ〜。それはそれは」と驚いて共感を示された。そういう気遣いは抜群の光世氏だった。
そういえば、綾子さんがご存命中は、小説を執筆する病気がちの妻にかいがいしく仕える献身的な夫としての姿が前面に。まるで婦唱夫随みたい。「結婚するなら光世さんのような男性と」と、私のピアノの先生が真剣に話していたことを思い出す。
ちょうど学部生の頃だったので、名古屋の書店に行けば、大抵いつでも、新刊書として三浦綾子さんの文庫本がうず高く積まれていたことを思い出す。そして、全部ではないが、エッセイも小説も大半を読んだ。今は読書ノートを広げる暇がないため、記憶に従って題名を記す。
氷点』(1965年)角川文庫版 『ひつじが丘』(1966年)講談社文庫版 『積木の箱』(1968年)新潮文庫版 『道ありき』(1969年)新潮文庫 『この土の器をも わが結婚の記』(1970年)新潮文庫版 『光あるうちに 信仰入門編』(1971年)新潮文庫版 『裁きの家』(1970年)『自我の構図』(1972年)講談社文庫版 『帰りこぬ風』(1972年)新潮文庫版 『石ころのうた』(1974年)角川文庫版 『ちいろば先生物語』(1987年)集英社文庫版 『命ある限り』 (1996年)角川文庫版 『病めるときも』(1969年)角川文庫版 『死の彼方までも』(1973年)講談社文庫版 『愛すること信ずること 夫婦の幸福のために』(1967年)角川文庫版 『あさっての風 あなたと共に考える人生論』(1972年)角川文庫版 『生きること思うこと わたしの信仰雑話』(1972年)新潮文庫版 『生命に刻まれし愛のかたみ』 前川正(共著)(1973年)新潮文庫版 『愛に遠くあれど 夫と妻の対話』 三浦光世 (1973年)講談社文庫版 『旧約聖書入門 光と愛を求めて』(1974年)カッパ・ブックス光文社文庫版 『新約聖書入門 心の糧を求める人へ』(1977年)カッパ・ブックス光文社版 (カッパ・ブックス) 『天の梯子』(1978年)集英社文庫版 『孤独のとなり』(1979年)角川文庫版 『泉への招待』(1983年)光文社文庫版 『小さな郵便車』(1988年) 角川文庫版 『それでも明日は来る』(1989年)新潮文庫版 『生かされてある日々』(1989年)新潮文庫版 『明日のあなたへ 愛するとは許すこと』(1993年)角川文庫版 『難病日記』(1995年)角川文庫版 『愛すること生きること』(1997年)光文社版 『綾子・光世愛つむいで』三浦光世 北海道新聞社 (2003年)[計31冊]
最初の頃は電車の中で読むのに最適で夢中だったが、しばらくするとパターンに慣れてしまい、純文学に比して小説が通俗的なように思えて、エッセイ中心に向かうようになった。その上、キリスト教理解と信仰実践も、基本的には同意するが、どこか物足りなさを感じ、すぐに図書館でもっと硬派の学術的専門的な本に向かうようになった。
しかし学生時代とは恐ろしいものである。これだけ続けて読めた時間を今でも貴重に思う上、晩年の綾子氏と一緒に人生の時間を重ねてきたという意識が思い出として強く残っているからだ。また、1999年10月、ご逝去の報に新聞で接した時には、何か大切な一時代が幕を下ろしたような喪失感を覚えたからだ。なぜならば、病弱とはいえ、あれほどまでに資料を読み込んで、次から次へと歴史小説のような作品を書く時間やエネルギーに圧倒されてもいたからだった。大きな励ましであったのだ。
ちなみに、うちの主人も結婚前に小説の方は何冊か読んだようだ。おもしろいことに、私が未読の作品を主人が読み、主人が未読のエッセイなど他の作品を私が読んできたこともわかっている。
今回、三浦綾子文学館を訪れてみて、いろいろと事情が飲み込めてきた。20代前半の独身時代には、よくわからなかったカラクリのようなものも、今ではさすがに背景が透けて見えるところがある。
1. 編集者に対して病気の進行状態を報告すると同時に、自分の仕事ぶりを自信たっぷりに話す綾子氏の映像。若い頃の私は、とにかく気力が前向きな綾子氏から励ましを受けていたのだが、今考えてみると、この時期、編集者としては、広告も出した以上、作品が絶筆に終わらないよう配慮するなど、採算が取れるかどうか、気が気ではなかったことだろう。
2. 家で仕事を始める前に光世氏が恒例の祈りを捧げていたのだが、その後、「ありがと」とさり気なく言った綾子氏の言葉の調子に、(やっぱり姉さん女房だったんだ。これじゃ、光世氏も遠慮があったのでは?)と感じさせられた。
3. 『氷点』が奇跡的な話題のデビュー作ということにはなっているが、雑貨屋の主婦が当時の1000万円の懸賞作品に当選したと華々しく報道した朝日新聞の記事を再度見て、(1)今なら1億円相当ぐらいの価値があるだろうが、あの頃の朝日新聞も、随分気前のいいイベントを企画したものだと、時代感覚の差違を覚える。(2)「雑貨屋の主婦」とはいえ、戦前戦時中は熱心で真面目な国民学校の教師だったのだから、ただの主婦ではありえないのに、そこが注意深く隠されている。(3)光世氏の「神の御心ならば当選させてください。そうでなければ…」という祈りの結果がこの当選だった、という側面が、特にキリスト教関係の出版物では強調されていたように記憶している。光世氏の信仰の真実性および祈りの聞かれ方の信憑性ということを、このエピソードが裏付けしているという受け止め方だった。しかし今から考えてみれば、もしその後、綾子氏が病を押して作品を次々に生み出さなければ、このエピソードが台無しになったという賭けのようなものも含んでいたはずだ。彼女の執筆エネルギーは、本当に信仰のみから与えられていたものか、それとも、決してご夫婦の口からは「企業秘密」として語られることはなかったものの、本来、教師を辞めた時点で、いつか小説家として歩みたい、という願いの実現化だったのか、という両側面から考える必要があるのではないかと思った。
4. 『氷点』が今では考えられないほど大ヒットしたのは、(1)当時は今のようなインターネットもなく、本を読むことが誰にとっても自然だったという時代背景と需要が見事にマッチしていたこと(2)キリスト教という、一般の日本人には一種特殊な領域に正面から切り込んでいったこと(3)普通は著名になれば、首都に出て東京在住でなければうまくいかないと言われた時代にあって、北海道の、それも札幌ではなく第二の旭川に終生留まり続けたことが、かえって他の追随を許さない一つの特徴を生み出したこと(4)病弱で晩婚の身でありながら、当時としては世間常識を裏切るような幸せな結婚生活を実践され公表されたことが、似たような境遇にある大勢の人々を励まし、注目される結果になったこと(5)キリスト教会の教勢が、今と比べれば遙かにまだ人材においても見通しにおいても、活力と希望に満ちており、日本キリスト教団の出版上の後押しが見事にタイアップしていた時代と合致したこと(6)いわゆる「証」として、教会にとっては、伝道のヒントに活用できたこと、などだろうか。
5. しかし同時に、犬養道子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090317)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130522)のような上流階級の著名な女性評論家にとっては、カトリックプロテスタントの神学的、教会的対立がまだ残っていた時代だったこともあり、「原罪ということが主題だそうだが、私にはどうしてもあの小説の意図がわからなかった。あぁ日本だ、ベタベタする、と思った。なぜ犯罪者の子だというので、世間から後ろ指をさされ、自殺にまで追い込まれるほど罪を着せられなければならないのか」という酷評をエッセイで物していたことも思い出す。それはそれで興味深い指摘ではあり、一種の小考察に値するが、そもそも、同じ日本人クリスチャン女性の文筆家ということではあっても、生まれ育ちも境遇も(両者とも病気がちだという傾向を除き)かなり違うことは看過できない。それに、衒学的なほど博識をひけらかし、西洋を過剰なほど持ち上げていた犬養氏のキリスト教執筆作品に比して、三浦綾子氏はいわば国産型の土着キリスト教を地で生きた方であり、小説のトピックも、いわば大衆向きのテーマで、キリスト教徒であろうとなかろうと、一般読者にはなじみやすかったことも確かだ。映画化された『氷点』を見たことはない。今、You Tubeで部分的に触れた感覚では、時代がかっていることは確かで、私の好みではない。しかし、当時ならば話題を呼んだことも事実だろうし、特に主人公の陽子を演じた女優さんが作品のイメージそっくりで、北海道の厳しい冬の自然の様子などもうかがえ、犬養氏の(一部妬みそねみも含まれていたかもしれない)非難は、必ずしも的を射た指摘だとは言い切れないだろう。ちなみに、マレーシアの先住民系キリスト教会で、『道ありき』の英訳冊子が売られていたことを思い出す(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071221)。欧州言語も含めて翻訳もかなり出ている。国際的と言えば、三浦綾子さんだって、犬養道子さんには決して引けを取らないのだ。
6. 日本キリスト教団六条教会にも行ってみた。ちょうど、『氷点』の主役の一人(啓造)が、ためらいがちに門を叩くというシーンがあり、文学館から教会まで、冷たい風が吹きさぶ夕暮れ時を一生懸命に歩いてみたが、実はそれこそが、小説を文字通りなぞる行軍であったのだった。立派な建物の教会で、驚いたことに今の牧師は同志社神学部出身の方。
7. 学部生の頃、「日本キリスト教団の牧師は、聖書を信じていないのに牧師を職業としてやっている」と聞いたことがあり、「だけど、北海道のキリスト教は本州と違って、非常に福音的な信仰だから六条教会も違うはず」とも言っていた友人がいた。今となっては確認のしようもないが、ポイントは二つ。(1)なぜ「北海道のキリスト教は本州と違う」のか、その背景は?(2)同志社神学部では、三浦綾子氏を卒論で扱うような指導は恐らくしてこなかっただろうが、伝道の一環として、綾子氏をどのように神学的に評価しているのだろうか?
8. ただし、三浦綾子氏のエッセイを読む限りでは、あの世代のキリスト者とは、相当の力量のある教養層が教会に連なっていたような印象を受ける。牧師も、それに応じた人が派遣されていたのではないかと推察する。少なくとも、ここ10年前に日本キリスト教団の『信徒の友』に目を通していた限りでは、三浦綾子氏の描く信仰風景とは異なった政治色、社会色の強い主張記事が目立ったように思われる。論争を生みそうな負の部分については、三浦夫妻は一切、口にも筆にもしないという姿勢を貫いていたように感じられる。
9. それが証拠に、『氷点』を生み出す場となった雑貨屋のあったご自宅は、今は福音派系列の教会の牧師館として使われているそうだ。
10.三浦綾子氏はやはり北海道の人であり、北海道から発信し続け、教会サークルの読者層という支援があったたからこそ、最後までつぶされずに書き続けられたのだろう、と思う。もちろん、光世氏の献身的な介護と執筆補助は不可欠な要素だが、祈りと信仰の奇跡という要素のみを前面に出すことは控えた方がよさそうだ。
今、キリスト教の低迷が、西欧はもちろんのこと、あの米国でも叫ばれている。今から翻ってみれば、ビリー・グラハムにせよ、三浦綾子氏にせよ、当時も今も、学問的あるいは質的に、ちょっとそれはどうかと思われる節も多々あるものの、悩める一般大衆に向けてキリスト教の肯定メッセージを発信し続けた力量と役割は、決して無視できない。いくら学問的に立派な資格を有し、高等な説教をしてみたところで、人々の心に届き、動かし、励まさなければ、何の意味もないのだ。
ちょうど、デビュー作の『氷点』は、私が誕生した年月に新聞連載がちょうど終わった作品。1999年に綾子氏が亡くなり、数年前に未亡人の光世氏のご講演を聞き、この度、旭川の文学館を初めて訪問し、全体として自分にとっても大切な一エポックが幕を閉じた感が否めないが、あの頃を今では非常に懐かしく、何よりも代えがたいもののように思い出す。