ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

市民的成熟度

数日前、朝日新聞の広告のようなコラムで、内田樹氏だったかが、おもしろいことを書いていらっしゃいました。
記憶が不正確なのですが、間違っていたらごめんなさい。
「市民的成熟度」についてです。例えば、結婚相手にしても「こういう人じゃなければだめ」みたいに、条件に合う人と出会うまでいつまでも待ち続けるタイプがある一方で、「市民的成熟度」の高い人は、そこそこの相手とさっさと結婚し、その後の生活を二人で協力して築き上げていく、ということのようです。つまり、条件が合えば結婚生活がうまくいくような幻想を抱いている人は、「市民的成熟度」が低いという意味らしいです。
結婚のみならず、就職などの仕事も全く同じで、「この職業、この会社でなければ」と思い詰めると、案外にうまくいかないのに対して、自分に何ができるかを見極めた上で、さっさと手近なところで職に就いている人の方が、人生はうまくいくという...。
それを言うと、「ユーリだってそうじゃないか」と主人。我々二人に共通しているのは、子ども時代に、親から塾などの勉強を強制されたことがなく、自由に伸び伸びと遊びほうけていたので、今でも勉強が好きなのですが、だからといって、「どうしても大学に残らなければいけない」という強迫観念もなく、まずは自力で食べていけるよう、さっさと仕事に就く道を選んだ、ということです。
主人も大学院には行きましたが、理系のために、トップ卒業で、大学の指導教授からの推薦によって今の企業に入社できたようです。従って、リクルートスーツの会社訪問という経験そのものがないわけです。
翻って私も、大学院受験は指導教授に勧められて、(え?)という感じで受けたらうかってしまったという...。でも、(いつまでも大学に残っていたら、本当に浮き世離れした霞を食べる仙人みたいになってしまう)という気持ちが強く、修士が終わったら早く仕事に就いて稼ぐようになりたい、と願っていたところ、指導教官から大学院推薦で面接のみで、国際交流基金によるマレーシア行きが決定しました。おかげさまで、あの時の給与貯金が残っているので、今も好きなように勉強が続けられます。

ところで話は変わりますが、当たり前のようでも大事なこととして、実力のある人ほど、腰が低くて謙虚だということです。母校の英国人の先生も、2006年にお会いした時、30分ほどか1時間ぐらいか、いろいろとおしゃべりに興じた後に、「私の下手な日本語につきあってくださってありがとうございました」などと、非常に謙遜されたので、改めて驚きました。英国人の中庸、そして、本音では何を考えているのかよくわからないところなどは、実は私、結構好きなのですが、それでも、言葉に出して、日本語でそのように言われると、(私もそういう自分でありたいなぁ)と願わされます。
ここで思い出されるのが、ある外国人の大学の先生のこと。最初の頃は、ご自分でも日本語ができないとおっしゃっていたのですが、私が、自分のマレーシア滞在経験も踏まえて、外国語というものは、ゆめ侮るべきではないと認識を深めているため、励ますつもりで「大丈夫ですよ。おできになりますよ」みたいなことを、英語で言ってしまったのです。
実は、周囲の日本人の先生方や学生さん達が、「あの先生は日本語ができないから、コミュニケーションに困っている」というようなことを漏らしているのを知っているのですが、最近では、ご自身が「何語でも大丈夫」と断言されるようになったために、私としては、相変わらず「おできになる」ことにしています。
母校の先生と比較しては失礼ですが、外国人にもいろいろなタイプがあるなぁ、ということと、やはり、本当にできる人ほど、たとえ西洋人であっても自分を低く語るのだ、ということです。そこを間違えるようなら、間違える方に問題があるのでしょう。
結婚前に、ある国立大学で非常勤講師として、あるクラスを担当させていただきました。その時、授業観察に来られた先生が、その後のフランス・レストランでの食事の際、「このまま続けていけばいいんじゃない?」と褒めてくださり、扱ったテーマそのものについても、アルジェでのご経験から、励ましてもくださいました。「ただ一言だけ、いい?最後の方で、自分を卑下するようなことを言ったでしょう?つまらない話で申し訳なかった、みたいに。でもあれ、教師が口にすると、学生は本気にするから、言わない方がいいね」と、付け加えられました。その時、私がなんと反論したか。「先生、でも、そういう文字通りに取る学生さんの方にも、問題があるのではありませんか」と。
今でも思い出すと、赤恥をかくとはこのこと、と恐縮しますが、先生の方も、一瞬びっくりしたように黙られてしまいました。
あれから15年以上経った今でも、毎年、先生の方から、こまめにお年賀状が届くので、別にお気を悪くされたのではなかったのかもしれません。でも、若気の至りとは、まさにこのことですね。