ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「語る資格がない」と分を守る

10日前のブログ『ユーリの部屋』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140519)のコメント欄で部分引用させていただいた廣淵升彦先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111001)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111009)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130207)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140210)の最新ブログから、再び部分引用いたします。

http://hirobuchi.com/archives/2014/05/post_641.html#comments
May 29, 2014
「(私にはそれについて)語る資格がない」という思想 -


(前略)
その提案とは「自分にはそれについて語る資格がない」という思想・価値観を広める努力をしてほしいということです。
(中略)
しかし、日本人はいつのころからか「人さまの前で、あまりにくだらないことを言うのは恥ずかしいことだ」という感覚をなくしてしまいました。取材してきたビデオを見た編集者も「これはくだらなさすぎるからボツにしよう」という決断が下せなくなっています。かくてきわめて情緒的・主観的な俗論が、国民の生活にとって最も重要な安全保障の分野でもまかり通るようになり、それが拡散して非現実的なことを考える人々がふえているのが現状です。
(中略)
巷の人々にマイクを向けると「私にはそれについて語る資格がありません I'm not qualified to (comment on that).」と言って、やんわりとインタビューを断る人が実に多いのです。いわゆる「分(ぶん)を知る」人々です。
(後略)

(引用終)

恐れ多いことですが、私も過去に「分を守る」「各々の分際の中で堅実に役割を果たす」ことの重要さを書き散らしたことがあります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090708)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101020)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110424)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121003)。
結局のところ、これも社会の前進と改善のために必要な各自の意識と実践なのだろうと思います。自分の存在を見て欲しい、意見に耳を傾けて欲しい、と願う気持ちは、自己顕示欲と言われ、誰にでも多かれ少なかれ持ち合わせているものですが、大事なのは、そこでブレーキをかける程度とタイミングだろうと思います。すなわち、先月のアメリカ滞在から宿題となっている「近代化」の問題との兼ね合いです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)。
これに関して、予備的考察メモでしかありませんが、4日前の「友達」とのやり取りから、骨子メールを以下に。

近代化の問題に関して、1648年のウェストファリア条約以降の「国民国家」概念というものが、その始発点であるべきだというのが、私の理解です。1868年以降、非西洋世界で日本が近代化に成功してきたと、もし本当にお考えになるならば、確かに私は、歴史的観点から、それに応じて同意いたします。



でも、私個人としては、人や社会に関する観点から「近代化」を考える傾向にあります。つまり、どのように時間やお金を使って管理するか、約束をどのように守るか、法の支配、治安と安全、衛生と清潔さ、時間厳守、個人や家族の領域の保護です。勤勉さと規律、客観性と自己批判、自由な知的好奇心、自由自在で洗練された表現も追加されるかもしれません。


この点で、5月初頭に少し訪問した岩手県福島県で、これらの要素のある種の根源を見出すことができました。そこから、明治期でさえ、国際的にさまざまな分野で働く著名な人材も生み出されました。それは、例えば他のアジア諸国と比べて、本当に驚くべきことでした。しかしながら、もっと重要な時代は、前明治時代に違いありません。つまり、江戸時代(1603−1867年)です。


また後日、このトピックをさらに続けるべきですね」。

(メール終)

実は、4月8日と10日にニューヨーク市内でおしゃべりした際にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)、「ムスリム世界は近代化に失敗しているが、日本は成功している」と断固言ってくださいました。私が(う〜ん)と戸惑っていると、「日本はそうじゃないって思っているんだね」と、それまでのメル友交信を想起して、柔和に静かに、温かく受け留めてもらえました。(本当に、どこが「権威主義的な男」なのでしょうか?)
このような態度からも、やはりメールだけの交信のみならず、会えるときにお会いしておく、機を逃さない抜け目のなさが大切だと思った次第です。

さて、上記の私見に対して、彼からの返信はどうだったでしょうか。

こりゃ、すごいリストだね。これらの観点で、どれほど前近代社会が異なっているかは著しいね。近代化の準備が整っている文化もあれば、そうじゃない文化もあるね」「今僕は○○○(某国)から書いている。イスラームが全く穏健な傾向だ。それは励まされるよ」。

コソボだからでしょう?それはそれとして、全世界に広がるイスラーム主義の着実な活動とは、分けて考えるべきですよ。

今日はこの辺で失礼いたします。用事がまだ山積みなので、またこのテーマは後ほど。

PS:繰り返しになりますが、「近代化」問題に関して、二十代の学生の頃から、文学、政治、経済、国際関係などの専門文献をある程度以上、読んだ末に、なぜ今の歳になって、個人や社会の次元から「近代化」を考えるようになったか、と言えば、「ポスト・モダニズム理論」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140308)や「超近代化」の話が、いかに胡散臭く、現実離れしているかを、海外滞在と国内旅行を経て実感するようになったからです。
もう一つの側面としては、どの宗教、どの民族、どの地域、どの時代に生まれ、生きることになっても、その所与条件が固有のものだという固定化した見方に左右されないで「近代化」を達成できなければ、それこそ意味がないと思うからです。この柔軟かつ積極的な考え方のヒントになったのは、ユダヤ教の‘Tikkun Olam’という思想。しばらく前から知っていた概念ですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130613)、4月に、ニューイングランドの保守派シナゴーグで偶然出会ったユダヤアメリカ人のおじさまからも、わざわざ後にメールで教わりました。つまり、ユダヤ教の教えでは、(元は神に創造された完全だった世の中が、人の罪によって堕落し、破壊してしまったために、信者は全力を挙げて)世の中をよりよく修復するために各人が努めること、ということのようです。それに従うならば、離散の民たるユダヤ共同体が住む地域は栄えることが多かったのは、ユダヤ教の教えを受け入れ、それを実践した結果だということになります。

https://twitter.com/ituna4011
Lily2 @ituna4011 • 10s
『愛するということ』 エーリッヒ・フロム(著)鈴木晶(訳) (http://www.amazon.co.jp/dp/4314005580/ref=cm_sw_r_tw_dp_maXHtb0FFS0NC …)こんな本を近所の本屋さんで久しぶりに買ってしまった。いただいた図書カードのお陰で、心置きなく購入できて感謝。フロムは、実は読むのは初めて。学生時代からの念願。

(転載終)