ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

サダトのエルサレム訪問裏話

http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP11016


緊急報告シリーズ Special Dispatch Series No 110
Nov/23/2016


サダトの歴史的エルサレム訪問―舞台裏からみた状況―」
メナヘム・ミルソン


エジプトのサダト大統領の歴史的イスラエル訪問から今年(2016年11月19日)で丸39年たつ。次の記事は、訪問の準備に直接かかわった人物の手記である。筆者は、MEMRIの学術アドバイザーであるメナヘム・ミルソン教授。現在、ヘブライ大学名誉教授(アラブ文学専攻)であるが、当時大学に籍をおいたまま、ウェストバンクのイスラエル軍政局でアラブ問題担当のアドバイザーとして活動していた。訪問時にはサダト付補佐官として、イスラエル政府に任命された。



1977年11月19日、エジプトのアンワル・サダト大統領が飛行機でイスラエルに到着した。旅程2日の歴史的訪問である。この訪問については、メディアが大々的に報じたにも拘わらず、表にでてこなかったエピソードがある。それは、イスラエルの対パレスチナ関係史のなかで殆んど知られていない側面である。


私は、資料に依拠する研究者としてではなく、直接かかわりを持った目撃者として、この話に触れたい。サダト訪問の16ヶ月前私はウェストバンクのアラブ問題担当アドバイザーとして、国防軍(IDF)に加わった。役割は、当地域司令部のアラブ問題担当局長である。大学ではアラブ文学の分野を専攻していたが、学術的仕事から一挙に現場へ出て、パレスチナ人社会とその政治的動きに、日々関わることになった。


当時、つまり1970年代中頃、パレスチナ人社会は、ラバトで開催された1974年10月のアラブ首脳会議決議に影響されていた。その決議によると、PLOパレスチナ人の唯一正当な代表である。ウェストバンク軍政部アラブ問題局の我々は、この決議が管理地区のパレスチナ人にとって重大な意味を持つことを、充分認識していた。しかしながら、当時この認識は、イスラエルの意志決定者によって殆んど共有されることはなかった。イスラエルの軍政部及び国防軍の幹部を含めてのことである。彼等は、その重要性とインパクトを理解せず、学ばなかった。何故読みとれなかったのか、判らない。恐らく、自称プラグマチストの実務家達は、綱領やイデオロギー色濃厚な宣言を軽視する傾向があるためであろう。しかし又、アラブ首脳会議は何度も開催され、いろいろ決議がだされてきたが、履行されてこなかったこともある。いずれにせよ、イスラエル側は、この決議の特異な性格を計算に入れることができなかったのである。それは、パレスチナ人の代表としてPLOの国際的立場を強め、後押しするものであり、PLOがその決議を侮るパレスチナ人は殺すと威嚇したのは、驚く程のことではない。


多くの人が覚えているように、イスラエル訪問の用意ありとするサダトの発表は、アラブ世界に衝撃を与え怒りの声があがった。特にPLOの反撥が強かった。管理地区のアラブ紙は、サダトのイニシアチブに対するPLOの激しい反撥を反映していた。訪問に協力するパレスチナ人は、ただでは済まぬという脅しもあった。そして管理地区のパレスチナ人は、こぞって訪問大反対という印象があった。しかし我々アラブ問題局の感触は違っていた。実際には、政治的変化を望み、サダトの訪問を歓迎する人々が沢山いた。それもかなり広汎な層であった。


1977年11月16日(水曜)、管理地区政府諸活動調整官のオルリ少将に呼ばれ、リスト作成の指示をうけた。サダト訪問時ベングリオン空港で出迎える歓迎陣リストで、モシェ・ダヤン外相の要請で、エルサレムとウェストバンクのパレスチナ人名士を含めるという。私に与えられた素案リストには、18ヶ月程前選出された親PLO派の市長達が含まれていた。その場で私はオルリ少将に、ダヤンのリストにのっている人物は、全員招待を拒否する、と言った。するとオルリ少将は、いらいらしながら、「ダヤンは(君よりも)アラブ人のことを知っている。彼は全員が受入れると言っているのだ」と答えた。ここで付記しておくと、ダヤンには沢山の賛美者がいて、所謂“アラブの心”を読む力が彼には備わっていると信じていた。私は言われた通りに記載されたアラブ人を招待した。それには、ナブルス市長のシャカ(Bassam Shak`a)、ラマッラ市長ハラフ(Karim Khalaf)、ヘブロン市長カワスメ(Fahd Qawasmeh)が含まれる。私が予想した通り、全員が拒否した


私は地域調整官に報告した。調整官はすぐに戻ってきて、「君が招待に応じると信じる人のリストを作ってくれ、ダヤンが要請している」と言った。私にはリストがあった。こうなると予想して作っておいたのである。数ヶ月前に、同じような経験をしていたからである。アメリカのサイランス・バンス国務長官イスラエルを訪問した時、ダヤンは御本人を主賓とする夕食会を自宅で開き、その際もダヤンの準備したウェストバンクの名士達をリストに加えよと言い、私が拒否するだろうと言っても、それをさえぎって招き、案の上拒否されたのである。それでダヤンは、招待に応じそうな人のリストを作ってくれと求めたので、すぐに作った。そしてその名士達はバンス長官歓迎宴に出席したのである。今回も、我々は公けにPLOと一線を画す人々をサダトのレセプションに招いた。彼等は招待に応じた。リストの準備については、詳しく述べておきたい。ダヤンは、私がパレスチナ人招待者リストを準備するにあたり、ひとつ条件をつけた。ラマッラの弁護士シェハディ(`Aziz Shehade)は加えるな、と言ったのである。ウェストバンクでは著名人のひとりで、反PLOとして通り、イスラエルとの交渉を求める人物として知られていた※1。この人物を招くなとダヤンが言い張るのは、彼のアラブ症候群のひとつで、イスラエルと平和交渉の用意がある人物として知られている者を忌避するのである。ダヤンは、パレスチナ人のテロリズムテロリズム支持者を“当然の反応”とみなしており、そのように公言していたのである。つまり彼の目から見ると、テロリズム反対を公然と唱えるパレスチナ人は、真面目に扱えないのであった。


イスラエル訪問の用意ありとするサダト大統領の声明は、管理地区パレスチナ人の間に混乱と緊張を生みだした。不安とためらいが入り混じった雰囲気である。エジプトは1945年以来パレスチナ大義を支持するアラブの主要国であり、そのエジプトの大統領によって予期せざるを平和の機会が見えてきた。一方PLOは、全アラブ国家によって、唯一正当なるパレスチナ人民の代表と認められ、サダトのイニシアチブに断固として反対していた。アラブメディアは、エルサレムで発行されているアラブ紙を含め、反サダトの煽動であふれていた。PLOは、サダト支持をなんらかの形で表明する者を猛烈に威嚇していた。PLOの公式路線からはずれるのは、余程の勇気がいることであり、所属部族の大々的支援が必要であった。


バンス国務長官の歓迎宴にどのパレスチナ人を招くか、或いはサダト歓迎に誰を招くのかは、外交儀礼上の些事のように見えるかも知れない―事実そうであった。それでも、この問題は、二つの政治的アプローチの違いを、あらわにしたのである。ひとつは、ダヤンのアプローチ。1967年の戦争以来管理地区政策を決めてきた人物の考え方である。あとひとつは、私が確信し現場で実行したアプローチ、前者とは全く違う考え方である。


このような経緯があって、私はサダト訪問に直接関与することになった。この水曜日(11月16日)、サダトのレセプションに招くパレスチナ人のリスト準備を指示され、それから数時間後、エフライム・ポラン准将から連絡があった。ベギン首相の秘書官(軍事担当)である。准将は、政府が私をサダト大統領付軍事担当補佐官に任命した、と言った。


私は委員会に加わるように求められた。サダト訪問の準備委員会である。ポランが委員長で、委員には、首相府長官のエリヤフ・ベンエリッサー、警察南部地区部長アリエ・イブツァン、シンベット(情報機関)副長官アブラハム・シャロム、外務省儀典局長レハバム・アミール、そして首相の報道担当秘書官ダン・パティルがいた。
厄介な問題のひとつが、サダトの身辺警護で、日曜日にはクネセットでの演説に先立ち、エルアクサ・モスクでの礼拝が予定されていた。その日曜はイード・アルアドハー(犠牲祭)で、イスラム暦で一番重要な祭日であった。11月17日(木曜)開催の準備委員会でポランが我々に「治安機関と警察の勧告で、サダトの礼拝は、サダト一行とボディガード、ムスリムワクフの長、そしてテレビ取材班と記者数名だけとし、一般の礼拝者は閉めだす」と言った。これが、計画された治安対策であった。


サダトと一緒に礼拝するのを禁じるのは、私からみれば、間違いであり、百害あって一利なしである。しかし、ほかの委員達は、最初この決定が持つ政治的含みがつかめなかった。サダトの礼拝はアラブ世界に放映される。空っぽのモスクのなかで独り淋しく礼拝する姿は、サダトボイコットを呼号する政治の世界とメディアの勝利となる。勿論私は、この決定の背後にある安全上の考慮を理解できた。しかし私は、別の解決法が必要であり、必ずその方法はあると信じていた。


私が委員達に指摘した訪問成否のカギは、ひとつにはメディアの報道内容である。どのように報道されテレビの画面に映されるのか。これは極めて重要である。クネセットでの演説前のエルアクサ礼拝が、多数のパレスチナ人礼拝者に囲まれ、熱烈に歓迎されている姿で報道されれば、訪問は成功と理解される。「じゃ、どうするんだね。メナヘム。イスラエルの歩兵部隊にムスリムの礼拝を訓練して、ムスリムのケフィヤを着用させ一緒に礼拝させることができるのかね」と揶揄するように言った。「そうではありません」と私は言い返した。「私が言っているのは、本当のアラブ人ムスリム礼拝者のことです。ここ数日かけて我々が調べたところ、礼拝に行ってサダトを歓迎したい者が、何千名もいるのです」。委員達は私の主張に説得された。しかし問題は、治安機関の最高責任者が何と言うかである。


サダト訪問時の身辺警護の責任は警察にあった。しかし現実には、決定はシンベット次第であった。警察代表のイブツァンとシンベットを代表するシャロムは、このようにデリケートな問題は最高責任者の判断にゆだねなければならない、と言った。つまり、ハイム・タボリ警察長官、アブラハムアヒトブ治安機関長である。


決定は金曜日朝まで延期された。その間アラブ問題局のスタッフ達と私は、大衆の空気を読み続け、PLOの威嚇と煽動にも拘わらず、機会を与えられれば是非サダトと一緒に礼拝したい人が何千名もいることを確信した。金曜日の朝、私はタボリ及びアヒトブと話した。二人は私の意見を認め、一般人の礼拝に同意した。その際アヒトブは条件を二つ付けた。第1は、エルアクサの構内に入る者は全員身体検査をうけること、第2が第1とも関係があるが、人員を1500名に制限することであった。勿論私は同意し、すぐイガル・カルモン(当時、私の部下でアラブ問題局次長)に知らせ、ヘブロンベツレヘム地区のアラブ人関係者にサダトとの礼拝ができることを知らせるように、指示した。


土曜日の夜、サダトが空港に到着し、歓迎陣の前に歩み寄ると、ウェストバンクのパレスチナ人要人達が、握手を求めて並んでいた。ベツレヘム市長のエリアス・フレイジ、ベイトジャラ市長のファラフ・アル・アラジ、ヘブロン地区の名士ムスタファ・ドディーン、ナブルスからは2人の要人、そしてヘブロンの前市長シェイク・ムハンマド・アリ・アルジャバリの姿もあった。ジャバリは、ヨルダン国王と極めて良い関係にあることで知られていた。翌日曜日、サダト一行がエルアクサ・モスクに到着すると、ムスリム礼拝者が沢山待っていた。彼等は早朝にバスやトラックを連ねてベツレヘムヘブロンの両地区からやって来たのである。サダトが構内に入ると、一斉に歓声があがった。「平和の英雄万歳、あなたのために血と命を犠牲にします。サダト万歳」と叫んでいる。サダトの顔が輝いた。一行は満足気に微笑していた。新聞とテレビがこの瞬間を見逃す筈はなかった。翌日サダトは、空港で歓迎したパレスチナ人要人数名のほか、極めて重要な人物2名と会った。ヨルダン時代のエルサレム知事アンワル・アル・ハティブ、前ヨルダン議会議長でナブルス出身のヒクマト・アル・マスリである。エジプトに戻ると、サダトは「私はエルサレムで真のパレスチナ人達に会った」と言った。それは、サダトボイコットを呼びかけたヤセル・アラファトを初めとするPLO幹部に対する辛辣な言葉であり、圧力や脅迫にも拘わらずサダトに会ったパレスチナ人に対する尊敬と励ましの言葉であった。


エピローグ


以上の出来事における私の行動指針が、更にはアラブ問題のアドバイザーとして、そして又後年ウェストバンクの民政局長になった時の指針が、ひとつあった。それは、イスラエルとの共存を望むパレスチナ人を励まし守らなければならぬということである。彼等を、親ヨルダン派や独立派の如何を問わず、支持しなければならない。私が紹介したエピソードはハッピーエンドで終った。その時私は、穏健なパレスチナ人指導者を助け、彼等は前面に出てきた。しかしながら、それはそれだけのエピソードに終った。パレスチナ人穏健派との関係は、ハッピーエンドには終わらなかったのである。イスラエル政府は、左派政権と右派政権いずれも、ヨルダンをパートナーとしたウェストバンクの解決法を、拒否した※2。更に、政権は、勇気を以て反PLOの立場にたったパレチナ人達を侮り、軽視したのである。穏健派パレスチナ人を励ますのが正しい道であったのに、悲しいかな、イスラエルの政策決定者を説得するのは、うまくいかなかった。


[1] シェハデイは1985年12月2日に暗殺された。
[2] ゴルダ・メイヤーとモシェ・ダヤンは、1972年3月にフセイン国王が提案した連邦案を拒否した。1982年には、ベギンがレーガン大統領のプランを拒否した。

(転載終)