ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『海ゆかば』

加瀬英明氏のブログ引用を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=kase-hideaki)。

http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi


麦の穂青し、空は一片の雲も留めず
2018年11月5日


・来年5月に全国民が慶祝に涌きかえるなかで、126代の天皇陛下が即位される。天皇は日本を統べて下さる要であり、民を安ずる使命を授かった御存在である。


天皇は他国の君主と違って覇者ではなく、敵対する者が存在しない。古代・中世の一時期さえ除けば、武力を用いたことがなかった天皇は日本でもっとも謙虚な人であり、日本の国柄が結晶した方であられる。日本の祭り主として2000年余にわたって皇祖を祀り、つねに国民の幸せと平和を祈ってこられた


・昭和20(1945)年のアメリカは「天皇を処刑せよ」という世論で沸騰していた。


・私は9月に同志とともに、靖国神社靖国会館において、『大西瀧治郎中将を偲ぶ会』を催した。大西海軍中将といえば、昭和19年10月にフィリピンにおいて、最初の神風特攻隊を編成して送り出したことから、「特攻隊の父」といわれてきた。当日、200人あまりが「偕行の間」に集まったが、その前に昇殿参拝した。


・「謹んで大西瀧次郎海軍中将の御魂と、先の大戦中に散華された英霊に申し上げます。わが国は先の大戦自存自衛のために、国を挙げて戦ったのにもかかわらず、連合国に『ポツダム宣言』を受諾することによって敗れましたが、世界史にまったく類例がない特攻作戦を空に海に敢行することによって、連合国の心肝を寒からしめ、名誉ある条件付き降伏を行うことができました。
ポツダム宣言』は、『われらの条件は左の如し。われらは左の条件から逸脱することなし』と述べて、『日本国軍隊の無条件降伏』のみを要求しています。
特攻作戦こそは、高貴な日本精神を発露したものでありました。特攻隊員と、アッツ島から沖縄まで戦場において玉砕した英霊の尊い犠牲によって、わが国の2600年以上にわたる美しい国体が護られて、今日に至っています。
日本国民は特攻に散った英霊が悲惨な亡国から、日本を救って下さったことを忘れません。御遺志を継いで日本を守ってゆきますことを、お誓い申し上げます」


・日本が国民を挙げてよく戦ったために、連合国が昭和20(1945)年7月26日に『ポツダム宣言』を発することによって、連合国側から和平を申し出た。トルーマン大統領はこの4日前に、アメリカ陸海軍(まだ空軍はなかった)に、「オリンピック作戦(オペレーション・オリンピック)」と名づけた九州上陸作戦を、11月に実施するように命じていた。


アメリカ統合参謀本部は、7月はじめに「対日計画案」を大統領に提出して、日本本土侵攻作戦に500万人の兵力を必要とするが、日本は1947(昭和22)年まで戦い続け、アメリカ軍死傷者が100万人を超えようと見積っていた。そのためにトルーマン政権は、前政権が日本に「無条件降伏」を強いる方針をとっていたのを改めて、条件付降伏を求めることを決定した。


・今日では多くの国民が特攻隊や、最後まで戦った将兵が徒死にだったというが、日本の悠久の国のかたちが、この尊い犠牲によって守られたのだった。先の対米戦争はアメリカの不当な圧迫を蒙って、已むに已まれずに戦ったものだった。


・和平派だった東郷茂徳外相と、戦後、本誌『カレント』を創刊された賀屋興宣蔵相は、『ハル・ノート』に接して、もはや已むなしとして、開戦の詔勅に副署した。


・偲ぶ会は、東映の協力によって、バリトン歌手・斎藤忠生氏の先導によって、『海ゆかば』の合唱から始まった。


・特攻隊員が整列をして水盃を戴くと、次々と離陸して、敵艦に命中するか、対空砲火によって、海面に激突する実写が上映された後に、東映若手男優3人が特攻隊の飛行服に、日の丸の鉢巻を締めて登壇して、1人1人、特攻隊員の遺書を朗読した。


・講話が終わった後に、壇上に戻った3人の若手俳優と、参会者が『同期の桜』を合唱したが、全員が頬を涙で濡らした。参会者が、再び『海ゆかば』を合唱することによって、閉会した。


・特攻作戦は、大西中将が発案したのではなかった。昭和19(1944)年7月にサイパン島が失陥すると、少壮将校から海軍部内に敗勢を挽回するために、特攻を行いたいという声が、澎湃として起った。特攻作戦が採用され、特攻兵器の開発が始まっていた。私には特攻について、多くの関係者の話をきいてまとめた英文の著書があるが、特攻作戦は長い歴史によって培われた、日本国民の愛国心と熱誠が表われたものだった。


・会が始まる直前に、実行委員の1人のF君が、「冒頭で『君が代』を斉唱しましよう」というので、私は反対した。特攻隊が出撃する時には、『海ゆかば』が合唱されたが、『君が代』が歌われたという例は、きいたことがない。


海ゆかば』は、防人を司る兵部少輔だった大伴家持(西暦717年〜785年)の歌で、『万葉集』に収録されている。『万葉集』は私たちの魂の故郷(ふるさと)である。君が代』は平安朝初期の『古今和歌集』にある祝歌(ほぎうた)で、悲壮な出撃にふさわしくなかったのだろう。


・閉会する前に、F君から「聖寿万歳によって、会を締め括りましよう」と耳打ちされたので、私は「それはやめましよう」と答えた。大西中将の自刃後に、淑恵夫人がインタビューで、中将が戦争末期に「天皇は国民の前に立たれるべきなのに、女官に囲まれている」と憤ったと語っており、部下に「この戦争は国民ではなく、天皇の側近たちが敗れたのだ」と、切り捨てたという証言がある。


天皇家は京都の御一家であって、武家の棟梁ではない。私たちにとって、天皇は文化的な存在である。


・特攻について1冊だけ、本をあげるようにといわれたら、『麦の穂青し』(勉誠出版)を勧めたい。特攻隊員の遺書が集録されている。全家庭に1冊常備したい本だ。題名は、昭和20年4月29日に九州から飛び立った23歳の特攻隊員が、出撃寸前に書いた遺書からとっており、「一二一五搭乗員整列。進撃は一三〇〇より一六三〇の間ならん。空は一片の雲も留めず。麦の穂青し」という短いもので、心の動揺なく出撃したことが証されている。進撃時間は沖縄の上空に着く時間を見積ったものだ。


天皇皇后両陛下が平成24年に、イギリスに行幸啓された。その時に、前大戦中の元イギリス兵捕虜が、沿道に並んで、抗議行動を行った。この時に、皇后は大戦後イギリス軍の捕虜となって、処刑された国人(くにびと)を思いやられ、和歌をよまれた。


語らざる悲しみもてる人あらむ母国は青き梅実の頃」という御製を拝して、私は「麦の穂青し」を思って、恐懼した。


終戦の日ごとに、テレビで玉音放送の録音が流されるが、「朕は茲に国体を護持しえて」と仰言せられるのを謹聴するたびに、特攻に、玉砕に殉じた先人たちを誇りたいと思う。

(部分抜粋引用終)