ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

校歌を歌おう!

用事が山積みなので、今日は簡潔に。
「小学校と中学校と高校の校歌、まだ歌える人、挙手を!」
私、歌えたんです、34年ぶりに高校の校歌を…(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180826)。
(但し、大学の学歌(?)については、歌ったことがないので知りません。その代わり、主人の会社の社歌を見たことはあります。)
我ながらびっくりしたんですが、絶対音感があるとピアノの先生に言われていたので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070925)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131007)、歌詞はともかく、旋律だけは健在でした。
校歌はいいですよ、特に50歳過ぎてからは。本当に自分を奮い立たせます。
学校が設立された土地の歴史や風土が歌詞に盛り込まれているので、自分の立脚点も歌いながら確認することができます。
十代の頭も心も柔らかいうちに、先生も一緒に丸ごと皆で、入学式や卒業式や体育大会等で繰り返し歌い続けてきたのだから、心の蓋を開ければそのまま出てくるんです、歌詞も。
子供の頃は、意味もわからずに口を開けて歌っていたんですが、大人になると、しみじみいいものだと思います。安心して歌えますし、発声練習や血圧にも良さそうです。
記憶を辿れば、小学校の時が一番大きな声で歌っていて、中学に入ると思春期の気恥ずかしさから声が小さくなり、高校では受験や試験のことで頭が一杯で、声が出なかったような....。
でも、家で家事をしながら、自転車で買い物の途中でも、周囲を確認してから好きなボリュームで歌うことができるのが、大人の醍醐味。
そう言えば、国文学科生の学部時代に、近代文学の教授が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130125)「時々頼まれて、学校の校歌を作っている」とおっしゃっていたことを思い出します。文学者が詩人になって歌詞を作るのですよ!伝統校ならば、作詞者名に注目すると、いろいろなことがわかるかもしれません。
先日の高校の同窓会でも、男性の先輩から「じゃ、どうして今回は来たんですか?」と尋ねられて、「自分のアイデンティティの再確認のためです」と、胸を張って答えた私です。
長い人生、何が起こるかわかりません。でも、古巣の学び舎に戻って、あの頃を思い出すことで、自然と勇気が湧いてくるのです。
同窓会の冒頭では、「若くして亡くなられた先生や同窓生のために、黙祷!」と声がかかり、一斉に起立して黙祷の時を持ちました。(宗教系ではなく、公立の学校であっても、黙祷は捧げるのです。)

昨今では、キリスト教の讃美歌でも、せっかく明治大正期の文語体のいい歌詞がたくさんあるのに、「子供も一緒に歌えるように」と勝手に今風に替えてしまったり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110830)、単純に人寄せのためにドラムをかき鳴らしたゴスペル風に質を下げたりしている教会がたくさんあります。この罪作りな業は、今よりもずっと文化距離が甚だしかった当時、格調高い国語に労苦して翻訳された先人賢人の歩みを消すところにあります。
大きく言ってしまえば、文化殺人と世代断絶を犯しているんですよ!

(ここからは普段の調子に戻って)
キリスト教は人の「罪」を指摘することが得意だが、私に言わせれば、こういう文化劣化に貢献している牧師や教会教師の「罪」はどうなんですか、と問いたい。
かつて月一度、ボランティアでシーツ交換をしていた老人ホームで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090213)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091221)、小学校の校歌(らしきもの)や童謡を、飽きもせずに大きな声で何度も歌っているおばあさんやおじいさん達がいたが、なぜ歌っているのか、老人心理を汲み取ることが必要であろう(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161115)。