ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

久しぶりに庄司紗矢香さんを

久しぶりに庄司紗矢香さんの記事を。彼女の関西での演奏会に何度か足を運んだことが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BE%B1%BB%CA%BC%D3%CC%F0%B9%E1&of=50)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BE%B1%BB%CA%BC%D3%CC%F0%B9%E1)、今では何だか遠い日々のようにも感じる。他の演奏家も含めて、これまで出掛けた演奏会のパンフレットやチケットを整理してリストを作りたいのだが、時間の関係上、なかなかできなくなってしまった。

毎日新聞』(https://mainichi.jp/classic/articles/20180120/ddm/014/040/002000c


庄司紗矢香ショスタコーヴィチを聴く 社会との闘いが呼ぶ狂気」
梅津時比古
2018年1月20日


自分と向き合うところから、演奏は生まれるのだろう。一方、社会と向き合うところから演奏家としての仕事が生まれる。真剣になればなるほど、その二つは内と外と反対を向いて、演奏をする者は引き裂かれてゆくだろう。引き裂かれまい、と闘うほどに、演奏者は孤独になる。
 有名な演奏家には社会と向き合って演奏している人を多く見かける。だからこそ世に出ているのかもしれない。もちろん、有名無名にかかわらず、そして年齢を問わず、ほとんど外を向いて演奏している人もいる。それは、こう弾けば聴衆は感動するだろう、このやり方で人々はあぜんとして聞きほれるに違いない、などと計算や狙いに満ちている。社会からも、輪をかけて音楽以外の要請が押し寄せる。演奏に至るまでの経緯に感動的な物語が欲しい、果ては美人ピアニスト、イケメンのチェリストが欲しい、といったショー的なものまで。
 自分の中の本質的な音楽的欲求以外の要素が演奏の中、あるいは演奏を取り巻く状況に入り込むのを嫌って、そうした誘惑や要請と闘っている演奏者もいる。しかし、それを貫こうとすると、社会を向く面が減ることにもなり、演奏の機会そのものが少なくなるおそれがある。自分の内を見つめようとしている演奏者は、そこで、社会に迎合するか、闘うか、迫られる
 バイオリニストの庄司紗矢香は、すでにその類いの葛藤は超越しているかもしれない。しかし、彼女は闘っている。それは自らの存在を問う闘いに思える
 ショスタコーヴィチにとってはその闘いが生命の存否に直結した。往時、ソ連共産党独裁の社会に迎合しないことは、死を意味した。党からの芸術家批判の矢面に立たされた1948年に書かれたバイオリン協奏曲第1番は、共産主義芸術観を無視する前衛性故に、完成後7年間、発表が控えられた。そこには、噴出する闘いが刻印されている。
 庄司がショスタコーヴィチのこの曲をゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団と共演した(昨年12月6日、サントリーホール)。第1楽章夜想曲の冒頭、庄司はオーケストラの低くたちこめる弦を更に沈み込ませる暗鬱な響きで入る。たゆたう抑揚の中から高みに上る一瞬、美への憧憬(しょうけい)が浮かぶ。強まる内圧を抑え、一面に広がる闇を、消え入りそうに見つめる。ハープとチェレスタがかすかに闇を照らし出す。
 庄司はやがて激してきて、第2楽章の鋭いリズムを擦過音を恐れず突き刺す。第3楽章パッサカリアで、庄司のバイオリンは悲痛と聖なるものが溶け合い、無限性に近づいている。
 終楽章前の、一人バイオリンの音だけによる長大なカデンツァ。世界の前にただ一人で立ち尽くしているこのような音を聴いたことがない。本質のみを追求して、何ものにも素手で立ち向かう孤独な闘い。聴きながら、本質を追求すると気が狂う、という思いに打たれた。
 社会と闘うことがすぐには死に結び付かない現代においても、闘い続けることは、崇高な狂気を呼ぶ

(引用終)