ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

各種検定の流行

かつて、資格取得のマニアみたいな人の話を、時々、立ち読み本やメーリングリストで読んだことがある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080203)。通勤時間などの細切れ時間を有効活用して、一日10分もあればテキストを広げて毎日勉強するという、いかにも勤勉で真面目な日本人好みの趣味と実益を兼ねた生きがい法だった。
やみくもに受験して三桁ほどの資格を取ったからといって、職業上、何の役に立つのかよくわからなかったが、とにかく「勉強して受験することに意義がある」ということだったようだ。
この頃では、「野菜検定」があるらしい。ちょっと調べたところでは、「ギリシャ語検定試験」や「掃除能力検定」まであると知った。他にも、「船の文化検定」や「お好み焼き検定」もあるようだ。
仕事の上でワンランク・アップを狙うとしても、暇....。
かくいう私も、今年9月に、電車の吊り広告を見て申し込み、岐阜で「信長検定」を受けた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170729)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170926)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171002)。目標は自分の「ルーツ辿りの補強」だと、最初からかなり低く設定してあったので、大変に申し訳ないが、合否は関係なく、今後に役立てればよし、とする。
もっとも、岐阜市側にとっては、長良川観光のさらなる活性化に役立ててもらうことを兼ねているようでもある。合格者には、長良川温泉のチケットが送られてくるらしいからだ。
たった今、ひょんなことから、「京都検定」があると知った。2004年に始まり、一級から三級まであるらしい。北海道から飛行機に乗って受験したという熱心な方の「合格体験記」をホームページ上で読んだが、私の「信長検定」も、ひょっとしたら地元のタクシー運転手さんには、そのように映ったかもしれない。
この「京都検定」には、なんと「一級合格者のつどい」まで用意されており、調べてみると、別の系統かも知れないが、小林企画事務所『一級合格者が語る「京都検定」の楽しみ方』(2006年10月)という本が出ていた。
こういう読み物には、年齢も地域も職種もさまざまな人生を送られた方々が、京都を主題にした一つの試験に合格するために、工夫を凝らして努力をした形跡が綴られていて、(日本人もまんざら捨てたものではない)と、静かな誇りが蘇ってくる。ある意味で、これは、今後の移民難民増加防止にも役立つかもしれないのだ。
語学の検定試験は、学生時代によく吟味して、英語やドイツ語やスペイン語のテキストを購入して勉強していた。とにかく、「自活」が小学校時代から回避不可だったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171009)、人の三倍、四倍は頑張らないと、世の中で受け入れてもらえないという、逼迫した精神状態だった。従って、外国語検定試験で、特に合格体験記を書いた記憶はないが、求められたこともない。ただ、掲載された人の文章を読むことは昔から好きだった。
実は、戦前戦時中の朝鮮語検定試験の合格体験記を分析資料として、研究論文を書こうとしていた人を、私は知っている。勿論、戦後リベラル左派思想ゆえ、合格者の「喜びの声」を批判的に追求したのである。当時はそんなものかと思った。しかしながら、いつの時代であっても、世相の流れに沿って人は生きるのであり、1910年の日韓併合でもなければ、一般の日本人が、あの頃それほど熱心に隣国の言語を学ぼうとしたかどうかは怪しいと思う。
主流となる社会思想が変わった後の世代にとって、前世代の行動の動機を批判するのは簡単なことだが、実際に学習をして、一定水準以上のレベルまで知識を獲得したという努力そのものは、戦後も何らかの形で役立っていたのではないかと愚考する。
PS:「京都検定」に関心を持った理由は、6日ほど前に、町内の施設で「地蔵盆の歴史−京都を中心に」という一時間半の講演を村上紀夫先生からうかがったことがきっかけである。
当日は雨で、参加者は20名ほどと少なかったが、雨男だとおっしゃる先生は、大きな明るい声で楽しそうに、現代版地蔵盆で共同体の子ども達にゲーム賞品として配る「ぴかちゅう」等のお話をされていた。
たくさんの自撮り写真をスクリーンで見せていただいたが、数年かけて京都市内の各地の地蔵盆をフィールドワークされた様子らしい。マンションの外階段の下や駐車場の中や袋小路の路地の突き当りなど、案外な場所にお地蔵様が祀ってあることがわかった。京都の地蔵盆を記した文献で最古の記録は、寛永15年(1638年)とのことで、これを古いと見るか、比較的新しいと見るかは、議論が分かれるところだろうか。
そもそも、私が地蔵盆について知ったのは、故松田道雄氏の古いエッセイ集だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160115)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160126)。京都の小児科の町医者という設定で読んでいたのだが、実際には小児科を選んだのは、マルキストだったために進路選択が限られていたという事情も関与していたらしいと、後になって知った。
そこで、講演会の終わりに、先生のところへ近寄って質問してみた。
「京都では共産党が強いと言われていますが、宗教を否定する共産党地蔵盆の今後の行く末の関係は、いかがでしょうか」
すると、丸顔の円満そうな愛媛出身の先生は、一言。
「さぁ、わかりません」
多分、私の見るところでは、地蔵盆そのものは少子高齢化によって小規模化するかもしれないが、今後も形を変えながら続いていくのではないかと思われる。
先生がお話の途中で、「『応仁の乱』ものすごい売れてますね、いいなぁ」とおっしゃったのが、何だかおかしかった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170927)。先生の本も、読まれていますよ。