ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

再び日文研の学術講演会へ

昨日は、7月末頃に送られてきた日文研国際日本文化研究センター)の学術講演会(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C6%FC%CA%B8%B8%A6)の通知に応募して、9月8日に受講票が届いた催し物に出席した。
実は、戦前戦時中にも親戚筋が中国に縁のあったらしい犬養道子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B8%A4%CD%DC%C6%BB%BB%D2)のエッセイ物で学生時代に知った「内藤湖南」と「応仁の乱」、そして学部時代からお名前だけは馴染みのあった「柳田國男」と「日本国憲法」という固有名詞に注目して申し込んだだけだった。
中村紘子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160729)のこれまたエッセイを読んでいたその昔、京都の人にとって「先の戦争」とは、第二次世界大戦ではなく、「応仁の乱」を指すと知った。それはそうだろう、戦火を免れた古都なのだから。
ピンチヒッターとして御挨拶された副所長の稲賀繁美先生によれば、今回は応募者多数だったとの由。何と、以下の呉座先生の本が40万部を突破したという爆発的な売れ行きで、「無料でお話が聞けるなら」という、主に白髪の高齢者が中心の会合だったのだ。会場は九割から九割五分の入りだったし、居眠りをする人もいなかった。
というわけで、まずは以下に呉座先生のインタビューを。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/098100.html


応仁の乱』/呉座勇一インタビュー


室町幕府の衰退を決定づけ、戦国時代の扉を開いたとされるこの大乱をめぐって近年、新説が登場し、学界でも議論が高まっているという。『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』を著した呉座勇一さんに話を聞いた。


──8代将軍の足利義政には息子がなく、弟の義視を後継者にしたところ、義政の妻である日野富子男児(のちの9代将軍義尚)を出産。富子は我が子を将軍にしようと画策して乱を引き起こした、などとも言われます。
呉座:かつては日野富子悪女説が有力でしたが、最近は富子の関与はかなり限定的だったと考えられています。足利義政が無能だったからという見方も単純すぎます。銀閣造営など文化事業にしか興味がなかった人と見られがちですが、義政の実際の行動を見ていくと、将軍としての自覚を持って政治に取り組んでいたことがわかります。応仁の乱に関しても、戦争を終わらせようと努力をしている。でも、そうした努力は実を結びませんでした。やることなすことタイミングが悪いんです。


──歴史上の人物で義政と似たタイプはいますか。幕末の将軍、徳川慶喜あたりでしょうか。
呉座:そうかもしれませんね。毛並みがよくて、頭もいいのに、優柔不断な上にムラ気がある。すぐ決断したり、もっと粘ったりしていればうまくいったはずなのに、と思える場面が少なくない。そういう意味では、戦前昭和に3度も首相になった近衛文麿は、足利義政と似通っている気がします。


──今回の執筆で苦労した点は。
呉座:まず、乱の背景として、当時の社会がどうだったかをわかりやすく書こうと考えました。他方で、あまり図式的でなく、なるべく正確に解説したいとも思うわけです。実際の歴史的事実は複雑なので、どうすれば読者に理解してもらえるか悩みました。登場人物もだいぶ減らしたつもりなんですが……。


──巻末の人名索引を数えてみると、登場人物は約300人です。
呉座:え、そんなに。100人ぐらいかと思ってました。今回、おもな舞台を大和国(現在の奈良県)に限定して叙述したのですが、全国のあちこちで東軍方と西軍方に分かれて戦っているのを数え上げたら、1000人ぐらいまで膨らんでしまうかもしれません。


──数多い登場人物の中でとりわけ印象深い人物はいますか。
呉座:武将なら畠山義就(よしひろ)でしょうか。畠山家(将軍補佐の管領を出す三家の一つ)の家督をめぐって従弟の政長と熾烈な争いを繰り広げ、応仁の乱の発端をつくったと言っていいと思います。東軍の総大将の細川勝元はごく真面目な人です。それに比べて西軍の総大将の山名宗全は、個性的で型破りと言われることが多い。でもそれにしたって、幕府を牛耳って権力を行使しようという発想なんです。ところが畠山義就は幕府なんかどうでもよくて、実力主義で自分の独立王国をつくってしまおうと考えた。戦国大名の先駆けと言っていい人物かもしれません。


──ところで、今回の執筆に関して印象に残っていることはありますか。
呉座:これまでずっと東京暮らしだったのですが、本が発売になる10月から日文研国際日本文化研究センター)の専任ポストにつき、京都に住むことが決まりました。もし数年前から京都に住んでいれば、応仁の乱ゆかりの史跡をもっと見て回れたかもしれません。

(部分抜粋引用終)
「京都に住むことが決まりました」の一言がじ〜んと来る。結婚前の主人は、節約して暮らすために会社の寮に住み込んでいたのだが、その場所は西京区だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160801)。歴史家が「京都に住む」と語ることと、単純に利便性を考えて一般人が「京都に住む」のとでは、全く意味合いが異なる。京都と言っても、洛中、洛東、洛北、洛南、洛西、嵯峨嵐山、鞍馬、伏見醍醐と厳然たる区画があり、本当に溶け込んで暮らすのは、外部の者には並大抵のことではない。せいぜい、学生時代に所属する大学のバックによって、存在が許されるだけではないだろうか。

日刊スポーツ』(https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1838462.html



応仁の乱」30万部ベストセラー!なぜウケるのか
2017年6月11日
<社会班厳選:キャッチアップ!トレンド>
 

中公新書応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(著者呉座勇一)が売れている。昨年10月に出版されて以来、約30万部を突破するベストセラー。新刊の歴史解説書としては異例の勢いだ。中学の歴史の教科書で必ず出てくる内乱だが、詳しく解説できる人は少ないはず。1467年から約11年続き、戦国時代へと流れる歴史的転換点が、550年後の今になってなぜ受けているのか?


 想定外の売れ行きに、著者の呉座勇一氏(36)ですら驚いている。「2万〜3万部売れればいいと思っていました応仁の乱は現代と同じで、先行き不透明で混迷な世相が受けたのかも知れません」と分析する。


 「人の世、むなし」などと、語呂合わせで応仁の乱の発生年を暗記した人も多いだろう。屋台骨の傾いた室町幕府8代将軍・足利義政弟義視と、義政と正室日野富子との間に生まれた義尚の後継者問題、双方を後押しする有力守護大名の対立、守護大名畠山家の跡目争いなどが絡んで、京都の東西に分かれて戦乱は始まる。


 東軍総大将の細川勝元も、西軍山名宗全も乱世には不向きだったため、11年間も争うことになる。都は荒れ果てる。戦乱は地方に拡大し、有力な守護大名の家すら危うくなり始める。家来の裏切りや内紛は当たり前。庶民の土地争いや食糧の略奪まで起こり、何でもありになる。


 呉座氏の研究によると、山名宗全は当初、畠山家の猛将、畠山義就を味方に付けて短期決戦で東軍を倒すと思っていたらしい。読みは浅く、東軍の思わぬ抵抗に遭う。どちらも決定打に欠ける。スッキリした結末もなく、勝者不在のまま混乱が混乱を呼び、戦国時代に至る。


 このグダグダ感、どこかの国と似ている。「埋蔵金はある」とか「行財政改革は火だるまになってもやる」とか、有言不実行の首相がいて、現在の安倍内閣になる前は、1年ごとに政権が交代した。70年前は太平洋戦争でも数々の失敗を繰り返した。


 「応仁の乱の当事者もプランがずさん。ゴールに向かって脚本が描けていない。ダメならどうするか考えず、読み違えた後の軌道修正もなし。長期的な視野もない。人のふり見てわがふり直せの反面教師が、この本です」(呉座氏)。


源平合戦関ケ原戊辰戦争など、日本の歴史上の主な戦乱は、決着がついている。勝ち組には必ず源義経徳川家康坂本龍馬らのヒーローが出現し、新たな時代を切り開いた。


 「世の中、偶然かもしれない英雄の華々しい成功例を参考にして、勝利の方程式を編み出そうとする。そうではなく、原因が明確な失敗にこそ学ぶべき」(呉座氏)。元プロ野球監督の野村克也氏の「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」という言葉も、引き合いに出した。


 最後にあえて勝者を探すとすれば?
 呉座氏は、「守護大名の家来で下克上を果たした織田、朝倉などの戦国大名。その勝ち抜き戦の頂点に立ったのが、家康」と言う。スポーツの世界なら、ピークが過ぎたベテランから若手が主力の座を奪い取ったようなもの。さらに付け加えた。「真の勝者は、(発生から)550年後に出現した呉座勇一ですよ」。いたずらっぽく笑った。

(無断転載終)

産経』(http://www.sankei.com/premium/news/170527/prm1705270028-n1.html

2017.5.27
応仁の乱」はなぜヒットしているのか? 筆者が読み解く
(文化部 磨井慎吾)


室町時代後期に発生し、戦国時代への転換点となった応仁の乱知名度こそ高いが、詳しい内容は一般によく知られていないこの大乱を概説した「応仁の乱」(中公新書)が、硬派の歴史書としては異例の37万部超というベストセラーとなっている。著者で気鋭の中世史家、呉座勇一(ござ・ゆういち)・国際日本文化研究センター助教(36)は「ある程度歴史に詳しい読者を想定して書いた真面目な本が、こんなに売れるとは全く予想外」と驚く。


登場人物300人! ベストセラー化は当人が一番意外


応仁の乱は、複数の守護大名家の家督争いや将軍家の後継問題、有力大名の細川勝元山名宗全の幕政をめぐる主導権争いなどを要因として、全国の諸大名が東西両軍に分かれる形で応仁元(1467)年に勃発。双方で寝返りが相次ぐなど混迷を極めた戦乱は11年にわたって続き、主戦場となった京都の荒廃や室町幕府の衰退を招いた。


・呉座さんの「応仁の乱」は、この極めてややこしい戦いを描くにあたり、同時代を生きた奈良・興福寺の高僧2人の日記に視点を置いたのが特徴だ。
 「この乱は複雑すぎて、全国で起きた戦乱全体を盛り込もうとすると普通の新書の枠では到底収まらない。だから視点人物を設定して、彼らの目に映った応仁の乱に限定した」


・登場人物が約300人に及ぶこの本、決してお手軽に読めるものではない。ベストセラー化は当人が一番意外だった。
 「奇をてらったタイトルを付け、とにかく単純化して分かりやすく書くという昨今の新書のトレンドとは正反対の内容。そういう本が売れたのは、非常にうれしいですね」


・歴史ブームの当節、歴史の教訓に学べと訴えるビジネス系の本は巷間にあふれている。しかし呉座さんは「現代は複雑で混とんとした時代。そこで生きるヒントを得るために歴史を学ぶのであれば、お話として単純化された『歴史講談』を学んでも意味がない」と苦言を呈する。


・執筆に際し心がけたのは、複雑な当時の状況を分かりやすく単純化することなく、複雑なままで読者に提示することだった。


・「応仁の乱はまさに失敗の連続。関係者がみなことごとく読みを外し、打つ手打つ手が裏目に出た中、どんどん拡大した。爽快感はまるでない歴史。しかし真剣に歴史から現代に通じる何かを得たいと思うなら、そうした失敗の歴史からこそ学ぶべきではないか
 

・「複雑なものを理解するのは大変だからとすぐ単純化したものを求める、その思考自体が危険。それは陰謀論ニセ科学の蔓延にも容易に通じる。こういう本がこんなに売れたのは、おこがましい言い方ですが、日本もまだまだ捨てたものじゃないという気になりました」


・「現実感がないというか、もともとそんなに売れることを想定していなかったというか。インターネットでは、内容が『難しい』という意見が多いのですが、それはある意味当然で、歴史に詳しいであろう2〜3万人を想定して書いたので、それほど歴史に興味がない人にとっては難しすぎるのかなと」
 

・「ふつう歴史物が好きという人は何が好きかというと、英雄が好きなんです。織田信長とか豊臣秀吉とか徳川家康とか坂本龍馬とか、偉人伝的なものが好きなわけですよね」「翻って、応仁の乱にはそういう類のヒーローが全然いない。登場人物がいっぱい出てきますけど、みんなどうしていいか分からないで、右往左往している。あまり格好よくないわけです。自分で主体的に世の中を変えていくといった感じの人は全然いないわけですけど、そこが逆説的にリアルに感じられたということだと思うんですよね」


・「そんなに深く考えていたわけじゃないんですよ。中公新書の編集者に何でもいいから書いてほしいと言われて、ちょうど『戦争の日本中世史』(新潮選書)という本を出した後で、その本は本来なら蒙古襲来から戦国時代までを書く予定だったんです」「ところが書いているうちにどんどん膨らんで応仁の乱までとなり、しかもそれもすごく駆け足で終わらせる形になった。応仁の乱をきちんと書けなかったという悔いが残っていたので、応仁の乱』だけで1冊書いてみたいという話になったんです」 「応仁の乱というのはある意味、日本史上で最も有名な戦乱なわけで、中公のような老舗で出ていないというのは結構意外でした」「実は今まで、『応仁の乱』というタイトルの一般書は非常に少ないんですね。私の前に出たのが岩波の本で、それが30年以上前。それくらい題材として難しいから皆さん避けておられたんだろうなと思いました」「しかしこれだけ知名度はあるのに、中身を一般の人に解説している本がないという状況はあまり良くない。そのギャップを埋められないかな、と思って書きました」


・「なので私は、応仁の乱に関するすべてを網羅するのは、最初からしないと決めました。あくまで、奈良の興福寺に当時いた尋尊と経覚という2人のお坊さんの視点に限定して、彼らの目に映った応仁の乱に基本的に限定しました。それでもあれだけの分量になってしまったわけですが」


・「『…540年を経て現れた真の勝者は呉座だ』と言われています(笑)。でも本当にそこはびっくりしましたね。私の本がどうというよりも、とにかく純化するんじゃなくて、しっかり書いた本がこれだけ売れたということは、非常にうれしい。日本もまだまだ捨てたもんじゃないな、と言うとおこがましいですが。真摯にいい本を書いている人、出そうとしている出版社にとっては、すごく意義のあることだったのではないかと思います」「正直に真面目にやっても何もいいことはない、奇をてらったタイトルでスカスカの本を作ったほうが儲かるじゃないか、と悲観していた人に勇気を与えられたかな、と。そういう点ではうれしいかなと思います」


・「いま割と歴史ブームみたいなことが言われていて、特に社会人になった人が歴史を学び直すみたいな需要をターゲットにした本が結構出ています。中にはいい本ももちろんあるんですが、『すぐ分かる』みたいなのを売りにして、とにかくお手軽に分かるみたいなことを言う本もあるので、そういうのは…。歴史に興味を持っていただけるのはありがたいんですが、違和感も抱いていました」「現代が複雑で混とんとした時代です。その現代を生きるヒントを得るために歴史を学ぶのであれば、あまりに単純化したものを学んでも参考にはならないと思うんですよね」「現代が複雑であるんだから、複雑で混とんとしたものをそのまま理解しようとしていかないと。単純なモデルでお手軽に手に入れた指針で複雑な社会を生きようとするのは、かえって危ない。生兵法はけがの元です」


・「歴史話って、政治家や企業経営者とか政財界の偉い人が好きじゃないですか。何かを決める際に、歴史上の話を引き合いに出したりするんですけど、それが割と『歴史講談話』だったりする。歴史講談を趣味として、物語として消費するだけならいいんですけど、それを現代社会を生き抜く上での指針にするのは非常に危険です」「『すぐ分かる』系の本だと、どうしても歴史講談的なものが入ってきちゃうんですよね。そういう話のほうが面白くて興味を引くので、どうしてもそっちのほうの話を持ってきちゃうんですよね。秀吉が草履を温めていたとか(笑)。歴史をお話で理解しちゃう。歴史を学ぶ入り口としてはいいんですけど、そこで終わっちゃう人はけっこう多くて、それを生きる指針にされちゃうと危ないなと思いますね」


・「イデオロギー的な問題もありますね。戦後の歴史学の中で、いわゆる英雄史観みたいなものが否定されたわけですよね。そこで民衆を見ていく必要がある、みたいなことになって。それへの反動として、また戦前的な英雄史観みたいなものが揺り戻しできているところがあり、それはまずいなと思っています」


・「一方で戦後歴史学マルクス主義的な見方も危ういところがあって、いわゆる英雄史観を否定しているわけですけど、逆に民衆を過剰にほめたたえるというところがあって、これも一種の英雄史観じゃないかという気もするんですよね。つまり、戦前は織田信長楠木正成を英雄だといっていた。それに代わって、名もなき民衆を信長とかの代わりに英雄の座に座らせているだけなんじゃないか。そういう点で、右の人だけじゃなくて、左の人も良くないと思っている」


・「今回の本の場合は、右の人が言う『信長すごい』みたいな話も、戦後歴史学が言う『民衆すごい』みたいな話も、結局これ、成功の物語なんですよね。私はそもそもそこが良くないと思っている」「学ぶべきは失敗で、失敗の歴史を学ぶべきだと思っている。応仁の乱というのはまさに失敗の連続で、関係者がみんな、よくぞここまで外せるな、というくらい読みを外して、打つ手打つ手がみな裏目に出ている」


・「この本がこれだけ売れたということは、そういうふうな流れになってきているかもしれない、という期待はあるんです」


・「後世の人間は歴史の結果を知っているわけです。その立場で歴史上の人物の失敗を見ると、義政はなんて愚かなんだろう、富子はなんてバカなんだろうという話になるわけですが、でもそれは結果を知っているから言えるわけであって、われわれが同じ立場だったらもっとうまく立ち回れたかというと、一概には言えないわけです」「結局、何か特定の人物が悪いという形にして説明すると、すごく分かりやすいといえば分かりやすい足利義政が悪かったんです、というふうに戦犯を一人決めて、そいつが原因というふうにしちゃうとすごく分かりやすい。でもそれだと、われわれの参考にはならない」「現代社会においても、誰か特定の人が悪くて、その人がいなければ丸く収まるということは、けっこう少ないと思うんですよね。誰か1人が悪いということはあまりない」
 

・「そう、陰謀論と同じなんですよね。陰謀論がなぜあんなに人気があるかというと、分かりやすいからです。戦争にしても、ものすごく複数の要因が絡み合って起こるんですけど、それは非常に理解するのが難しい。それを誰か特定の悪い人、あるいは組織の陰謀で戦争が引き起こされたとすれば、これはものすごく分かりやすくなる」


・「だから歴史講談調のものにひかれてしまう人と陰謀論を信じる人は、割と紙一重だと思います。陰謀論だけじゃなく、疑似科学ニセ科学なんてものにもそういう所があるわけですよね。ガンの民間療法ですとか。医学的な問題をきちんと理解しようとすると大変なので、何々を食べればOKとか、そういう簡単な解決法に引きずられてしまう」「全部根っこは一緒だと思うんですよ。要するに、複雑なものを理解するのが大変だからといってすぐ単純化するという思考の働きそのものが危険なわけで。そういう意味では、複雑なものを複雑なままにいかにして理解するかという知的体力やメディアリテラシーみたいなものに通じる話だと思います」


・「別に私が初めて開発したポーズじゃないのに、何で『呉座ポーズ』なんて言われるのか分からない(笑)」

(部分抜粋引用終)
というわけで、ご著書も入手していないのだが、話題の渦中にある研究者だと知らずに講演会に参加できたというのは、僥倖ではある。
柳田國男のお話は、サブカルの漫画で有名らしい大塚英志氏によるもので、恐らくは、民俗学者としての柳田に加えて、もう一つの側面である「公民」意識の醸成という社会への働きかけを紹介したかったのであろうかという講演だった。よく存じ上げなかったが、お父様が後に離党した元日本共産党員で、満州からの引揚者とのことで、劣悪な住宅で育った方のようだ。
呉座勇一氏は、支那学の泰斗だとされる内藤湖南が、中国の統一を成功させるためのモデルとして、最初は明治維新を唱えていたのに、うまくいかなくなると応仁の乱を持ち出して新たな指標としたという、過激かつ根拠に疑義を疑わせるような説の紹介と大雑把な検討課題を話された。
内藤湖南については、まだ読んだことがないので何とも言えないが、いかにも恵まれた係累筋による耳学問を援用して文章を綴ることで一時期名を上げた故犬養道子氏らしいな、と思った。
ところで、行き帰りには阪急桂駅前の往復無料送迎バスが大型観光バスで五台用意されていたが、やや問題があった。
入場定員は抽選による500名とされていたが、受講券を送付する際、参加希望者の住所を見れば、自家用車禁止という条件がつくため、凡そ送迎バスを利用しそうな人数は把握できそうなものである。
送迎時間内で駅前に着いたのに、何と私は、一旦バスに乗り込んだものの、人数超過のため下ろされて、京都市バスに料金を払って別途向かうことになったのである。
「受講券を持っているし、時間内に来たんです。乗せていただけませんか」と尋ねてみたが、駄目とのことだった。
日文研の周辺は、京大の壮大なキャンパスもあるが、概ね中上層向けの新興住宅街で、市バスを使うと、家並みを眺めながらぐるぐると周遊して日文研に向かうため、30分はかかってしまう。私が到着した時には、ギリギリ開始直前だったが、こんなに遠くて不便だとは、三十代の頃には全く気づかなかった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090226)。以前はタクシーを使ったこともあったが、知らない人との相乗りは、物騒なこの頃、やはり控えたい。
ただ、駅周辺で誘導してくれたバス会社のバイト風のおじさんが、いかにも申し訳ながっていて、帰路にも30分間、列を作って待っていたところ、「行きにはすんまへんでしたなぁ。限られた予算なんで」と声を掛けてこられた。思わず、「えぇ、アンケートを書きました」と正直に答えたところ、「ま、書きますわな」と大笑いされた。
講演が終わるまで前席にいらした副所長の稲賀先生とは、お互いが独身だった時代に、前任校の国立大学で私が非常勤を務めて以来の知り合いで、当時、とても親切にしてくださったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120425)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130310)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130602)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130605)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130625)、社会的身分が異なると、これほどまでに扱われ方も違ってくるとは、三十路の頃には想像もつかなかった。
あの頃、研究リサーチをしっかり続けていけば、日文研近辺の家に住めるような自分になれるだろうと夢想さえしていた。
実家の大きさに近かったので、真面目にやっていれば、その延長線上に自分の人生も待っているのでは、と勘違いしていた。そもそも、土地を購入して建てた実家は、特に母方の祖父母の援助によるものであり、父一人の経済力だけではなかったはずである。それをすっかり忘れて、主人と力を合わせれば可能ではないかと....。
遺産もゼロのまま(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170905)、ふと気づいたら預金通帳もごっそり取り上げられていた挙げ句、進行性難病の夫を抱えて、倹約しながら地味に暮らしている今を思えば、何をか況や、である。
つまり、若さとは、何より無知を意味し、何事も気にならない無邪気さと無謀さが備わっているということである。
遠くから拝見している限り、稲賀先生は今も若々しく、全くお変わりない。
河合隼雄氏や故片倉もとこ氏の時代は、遥か遠くになりにけり、である。
[補遺]
ウィキペディアより、故片倉もとこ元日文研所長について抜粋を。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E3%82%82%E3%81%A8%E3%81%93


片倉 もとこ(かたくら もとこ=素子=・旧姓新谷、1937年10月17日 - 2013年2月23日)


奈良県奈良市出身。国際日本文化研究センター名誉教授・元所長、国立民族学博物館名誉教授。理学博士(東京大学、1974年)。主にイスラーム世界と多文化を研究専攻とした。ただし、著作の多くはエッセイ風の読み物で、学術論文といえるものは意外に少ない。
国際日本文化研究センターの歴代所長は梅原猛河合隼雄山折哲雄と生え抜きが続いていたが、所外者で初めて女性の所長である。
・夫は湾岸戦争時の駐イラク大使で、のちに大東文化大学国際関係学部教授に就いた片倉邦雄。

(抜粋終)
所長でいらした頃に複数回、講演会に出かけたが、ある時、壇上から「あなた方、よう勉強しはるなぁ」と文字通り小馬鹿にしたような調子で見下すようにおっしゃり、ゆとろぎ提唱者として、お香を焚いて瞑想の時間を持っている、と付け加えられたことを思い出す。
あの頃は、日本の高等教育におけるイスラーム理解が、概ね片倉路線というのか板垣路線バリバリだったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140306)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151203)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170901)、私は窒息しそうな思いだった。
同じ頃、池内恵先生が颯爽と論壇で異見を展開し始めるにつれて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C3%D3%C6%E2%B7%C3&of=50)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C3%D3%C6%E2%B7%C3)、傍流の私も少しずつ皮膚呼吸から肺呼吸ができるようになっていき、ついに片倉先生が亡くなって四年経った今、晴れて堂々と全呼吸が可能になっている。