ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

少し早めに9月の総括を

9月も終わりに近づいている。今月は、3日の大津と近江舞子http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170908)、14日から16日までの東京での5年ぶりの学会出席で訪問した広尾と銀座(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170923)、そして、一昨日24日の岐阜市での「信長検定」受験(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170729)と岐阜公園散策等、充実したルーツ辿りの第三弾を経験できた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170727)。
メモは残っているが、記憶の定着と記録の保存のためのブログ書きは、しばらく後になりそうだ。
昨日の午前中は、月3回の簡易テニスの日だったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170808)、新幹線を使わない岐阜遠征のためか、疲れて体力不足。帰宅して昼食の後は、先日入手した『諸君』創刊号を読みながら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170923)、三時間もお昼寝してしまった。
岐阜県は父方母方両系の祖父母の出身地なので、幼稚園の頃から弟が生まれる前の小学校低学年までの親戚とのさまざまな思い出が蘇ってきた。不思議なもので、親や祖母が昔の追憶にゆっくりと耽る時期には、子である私は二十代から四十代前半までの人生構築形成期に当たり、とにかく昔を振り返るよりは今と前だけを見つめて、競争社会を生き抜くのに必死。そのこともあって話が噛み合わなかったのだろうが、このズレは、もっと世の中がゆったりと自然なサイクルであれば、もう少しは埋め合わせができたのかもしれないと思ったりもする。
それに、織田信長については、歴史ファンであればともかく、普通の学校教育で日本史を履修した程度では、発掘作業が進んだ今の歴史展開には対応できない。知識も常に更新が必要ということだ。
日がとっぷりと暮れる前に見るものを見たかったので、岐阜公園まで都ホテル前の道からタクシーを拾ったが、運転手さんとの会話で「学生の頃は、歴史上の権力者が一般の下々を虐げているという感じで教科書が書かれていたので、希望は常に未来にあると思い込まされていたのですが、信長検定のためにテキストが送られてきて読んでいたら、今は随分解釈が違うんですねぇ。今の方がいいと思いますが」と私は言った。そして、「父方母方共に祖父母は岐阜系だったのですが、私は名古屋で育ったので、若い頃はいつも東京を見て暮らしていました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170611)。学校もメディアもそういう風潮だったのですが、この歳になると、ルーツ辿りをしたくて、今回、交通費だけ払って、信長検定を受けに、京都方面から岐阜まで日帰りで来ました」とも言い添えた。
また、私の前には、静岡から検定のために親子連れで来た乗客を乗せたとのことだったので、「小さい子も何人か会場にいましたが、小学校二、三年生ぐらいでしょうねぇ。凄いですね、あの漢字が読めるなんて」と素直に私は驚いた。「よくできる中学生ぐらいなら解けるんでしょうが、高校一年生の学校のテスト程度のレベルじゃないでしょうか」と私。
そんなこんなを話していたら、タクシーの運転手さんは支払いを320円もまけてくださった。渋滞を避けて遠回りしたことも与かっているようだが、やはり「おもてなし」精神抜群だ。
受験番号から判断すると、一般公募で当選した人達のみ、約600名ぐらい受験したようだが、私の部屋は概ね中高年の男性が中心で、女性は少なかった。信長ファンは男の人が多いのだろうと推察する。
ともかく、検定の合否について私は全く自信はない。今回の受験目的はルーツ辿りであり、試験をきっかけに信長や岐阜周辺について学び直すことができればいいのだ、と低く目標設定してある。
昨晩は遅くまで「岐阜ファイル」を作り、あちこちで集めたパンフレットや地図や解説書にラインマーカーをつけて、順にファイリングして過ごした。
実は、岐阜公園に行ったら、検定の問題文があちこちの標識に書かれていたことが判明したのだ。つまり、「まちなか博士」とは、近辺に住んでいる人に有利にできている資格のようなものである。
しかしながら、遠方の県外に住んでいる者にとっては、どのレベルでテキストを勉強すればよいのかわからず、なかなか厄介だった。それ以上に、テキストが送られてきた7月には毎日ページ数を決めて読んでいたのに、他事(特に眞子内親王のご婚約騒動)で、自己分析と平成の代替わりに備えた勉強で忙しくなってしまい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170816)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170821)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170822)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170823)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170901)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170905)、充分な準備に欠けていたことが大きい。あくまで趣味レベルなので、往復に新幹線は使わなかった。その代わり、JRの車中で受験生よろしくテキストを広げてにわか勉強に励んだが、到底、間に合わなかったことをここで告白する。
日帰りだが、一人でお留守番の主人のために、南瓜蒸かしのおかずや、寒天で作った抹茶デザートや、玄米ご飯を用意しておいた。私の精神安定のためには家系のルーツ辿りが重要だと知っているので、快く主人は送り出してくれた。実は右目のヘルペスが罹患直後で痛みのピークだった今年の2月上旬(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170219)、一人旅を計画して長良川へ出かけた主人が、ホテル前の道路で箱に躓いて転び、バランスを崩して顔と頭が血だらけなったため、宿泊もせずに即座に帰宅した事件が発生していたのだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170630)。
幸いなことに、転んだ直後にそばを通りがかった四十代ぐらいのご夫婦らしき方が、すぐに手持ちの携帯で救急車を呼んでくださり、到着するまで傍にいてくださったのだという。早速、岐阜赤十字病院まで運ばれたが、治療後の支払いをするために、保険証をファクスで送信してほしいと、主人から電話で連絡があったので、事の顛末を知ったのだった。
宿泊ホテルと救急車を出してくださった消防署と岐阜赤十字病院の担当医師宛にお礼状を書いて送ったのは私だが、今回、検定の後に時間があれば、もう一度お礼に訪問する心づもりではあった。手紙の複写も持参したが、結局のところ、時間切れでかなわなかった。だが、寒い中、「体が少しでも動く間に」と、気分転換を兼ねて一人で旅を計画した当時の主人の心境を少しでも思いやり、現場近くの人々の親切心を感じ取り、最後に訪問してから、かれこれ25年ぐらいご無沙汰だった岐阜を再訪するためにも、今回の一日は意義があったことと思っている。
話が前後するが、今月中旬、5年ぶりに出席した学会では、右目のヘルペスの後遺症が続いていることもあって発表を見送ったのを良いことに、会場となった聖心女子大の構内を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170923)、前日に一人ツアーしてみた。ある建物の中では、静岡県にある不二聖心女子学院が経営している不二農園で栽培しているお茶の注文葉書が置いてあったので、早速、ほうじ茶を一袋、注文してみた。
昨日届いたので、空き瓶に詰め直した。ちょうど、これからの季節には、熱いほうじ茶がおいしくなる。
この不二農園の茶畑一帯の広大な土地にご縁のある岩下壮一神父(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150403)のご著書を一冊持っていて、1999年9月中旬、京都のジュンク堂で購入した『カトリックの信仰講談社学術文庫(1994年/1997年第6刷発行)が手元にある。
この本の解説は、九州大学名誉教授で福岡女学院大学教授の稲垣良典氏が書かれているが、その文末に、宗教改革を何故やったのかというプロテスタント思想家に対して、「本当に、何故なさったのでしょうね」と応じるほかなかったと締めくくられている(p.966)。
この一文が特に奇妙に響いたのは、上記の学会のシンポジウムのテーマが、マックス・ヴェーバー大塚久雄(訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫 白209−3(1989年/1999年第28刷発行)だったからでもある。
大会のお知らせと同時に、事前に上記の岩波文庫をテキストとして読んでおくことという指示が含まれていたので、勿論、2000年12月下旬に京都の同じジュンク堂で購入したと記した手持ちの文庫本を学会会場へも持参。シンポ中は、各発表者のご発言やコメントを聴きながら、レジュメを参考にしつつ、時々ページを開いてラインを引いたりしていた。
ヴェーバーの本書については、国文学科だった学生時代に図書館で頑張って読んでみたが、どうしても理解が追いつかなかった。東大の経済学部では必読書だとどこかで聞き、(やはり東大に入る学生は、高校時代から学力知力共に高いんだわ)と見上げるような思いだった。
ところが、今回のシンポを聞く限りでは、どうやら当時のヴェーバーの置かれた社会文脈を無視して理解は不能であるという示唆と、ヴェーバーは当時の欧州のキリスト教の各教派理解が必ずしも正確ではなかったという、それぞれの専門家のご指摘が出てきた。
その上、ワインやビールがたっぷりと振る舞われ、アジア・エスニック調のお料理がテーブルに並んだ夜の懇親会では、「マルクスが読めなかったからヴェーバーを読んだ」という大塚史学を理解する必要性も語られていた。
なるほど。時代を経ると、その当時は優勢でも、形勢が不利になる可能性はどこにでも転がっているという教訓でもある。
この話は、一昨日の信長検定でも該当する。
続きは、また後日に。