「楠木正成 正行の親子」の像が我が町にあります。
I・T:桜井の駅?
ユーリ:はい、そうです。毎日のようにお買い物で通ります。
I・T:あそこらへんはいいとこですね。他にも石碑がいくつか立っていて、東郷元帥の墨筆のものもあった様な。
(転載終)
上記の話題に関して、同じ「はてな」ブログの方が、とてもコンパクトな解説を書いてくださっていますので、無断で引用させていただきます。
(http://d.hatena.ne.jp/amanokakeru/201211)
2012-11-23 桜井の駅
桜井の駅における楠木正成・正行父子の今生の別れは、『太平記』の名場面のひとつ。「駅」とは宿場のこと。この駅は現在の大阪府三島郡島本町桜井にあたり、JR島本駅のそばに記念として小さな公園ができている。藤原定家ゆかりの地として水無瀬離宮址を尋ねる途中に立ち寄った。
唱歌『桜井の訣別』の冒頭、「青葉茂れる桜井の・・・」(作詞・落合直文、作曲・奥山朝恭)は、年配の人たちには馴染みであろう。桜井の訣別としては6番までで、よく知られているが、実は歌詞は、敵軍襲来、湊川の奮戦 と続き、15番まである。次には1番と6番だけあげておく。七五調がなんとも心地よい。青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か
共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を公園の隅には、明治天皇の御製(東郷平八郎の揮毫)が、立派な石碑になっている。
子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて
昔をしのぶ さくらゐのさと古くは、芭蕉が次の句を詠んでいる。
なでし子にかかる涙や楠の露 芭蕉
明治時代の作である謡曲「楠露」の曲名は、この句に由来する。
(無断転載終)
二十年前、この町に引っ越してきた時には、この「楠公さん」の一角に「青年の家」があり、学生達の宿泊所等に使用されていた。私の記憶では薄暗く、あまり人気がなかったようだ。JR駅の開設に伴い、「青年の家」の建物は壊され、今では跡形もない。その代わりに、公園がもっと整備され、歴史を自然に偲ぶことができるようになった。
この頃では、町興しではないが、縄文時代からの遺跡の品や歴史的な御由緒などが一般に広く公開され、町主催の歴史講習会のような学習も盛んになってきた。
初めの頃、高層マンションのようなベッドタウンとしての特性ばかりが目についていた上、周囲に「まだそんな所に住んでいるの?」等と言われてくさっていたが、自分が歳をとったためなのか、それとも政治的に保守傾向が顕現化してきたからなのか、とてもいい場所に住まいを定めたことを、我ながら良かったと思えるようになってきた。
(http://d.hatena.ne.jp/amanokakeru/201211)
2012-11-25 水無瀬離宮址
後鳥羽上皇の水無瀬離宮では、建仁二年九月十三夜の水無瀬殿恋十五首歌合に代表される歌会や白拍子、遊女などを上げての乱交騒ぎまでがあった。後鳥羽院の気ままな振る舞いについては、藤原定家の『明月記』に詳しい。水無瀬殿恋十五首歌合での定家の詠草をいくつかあげておく。郭公空につたへよ恋ひわびてなくや五月のあやめわかずと
今宵しも月やはあらぬ大かたの秋はならひを人ぞつれなき
俤もまつ夜むなしき別れにてつれなくみゆる有明のそら
つれなきを待つとせしまの春の草かれぬ心のふる里の霜
ゆくへなき宿はととへば涙のみさののわたりのむらさめの空後鳥羽上皇水無瀬離宮跡という石碑を探したが見つからなかった。広瀬遺跡として発掘調査が行われているらしい。だが尋ねた付近ではそんな場所は見えなかった。離宮は1199年ごろに築かれたが、1216年の洪水に遭い、改めて近くに再建されたらしい。少し離れたところにある水無瀬神宮が離宮の跡という説もある。
[追伸]水無瀬川は、古来歌枕として知られ、万葉集以降数多く詠まれている。後鳥羽院が水無瀬の情景を詠んだと思われる有名な次の歌が、『新古今集』に載っている。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ
(部分抜粋引用終)
過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070902)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080419)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100214)も、どうぞ。