ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

フランスの一動向から

二日前、ちょうどパイプス訳文の開始から、丸五周年を迎えた。
突然のご依頼に戸惑いつつも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120330)、始めてみると、思いがけない視界が広がっていて、時間の使い方が全く変わってしまった。時間の使い方のみならず、世界観まで目覚めてしまった。
日本でもテレビを見ない生活のため(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091029)、ましてやアメリカのテレビ番組など殆ど知らなかったので、さまざまな分野まで視野を広げる面では、確かに意味のある濃密な五年間だった。
最初の頃は、もっとコラムが定期的で、公表の一日前には訳者に対する連絡が原稿付きで入っていたので、二、三日の間には数言語がウェブ上で出揃うほど、きっちりとしていた。
中でも、フランスのアンヌ=マリー・デルカンブル先生などは、とても精力的だったのが刺激となった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130625)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160406)。亡くなって一年以上経つ今では、本当に懐かしい。
訳業を始めてしばらくして、「フランス語とイタリア語の訳文は、非常に多くて頻繁に出ていますが」と尋ねたところ、「彼女達のリズムだよ」とパイプス先生からお答えがあったのだが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)、今にして思えば、既に2008年にガンを患っていたことがわかったアンヌ=マリー先生にとっては、古典的なイスラーム学者として自分の名を残すべき最後の仕事だと思って、一生懸命だったのではないだろうか。そして、まだ還暦前の働き盛りだったパイプス先生も、その年の6月に、入院先のブリュッセルまで特別に御見舞の旅に出掛けたのだった。それが「こんにちは」であり「さようなら」だったという。つまり、ウェブ上では活発で、本の序文を書くような間柄であっても(http://ja.danielpipes.org/blog/13034)(http://ja.danielpipes.org/article/13782)、実際に会ったのは、最初で最後だったということだ。
そのこともあってか、時々「ありがとう!」とパイプス先生の勇気あるコラムに感謝されていた。フランスでは必要な声だったのだろう。実は、毎日のパイプス訳業という目的があったからなのか、お医者さんも驚くほど7年半も延命されたと、後でパイプス先生から伺った。それにより、非常に親しくなれたのだという。
昨秋、そのパリを訪れた時、アンヌ=マリー先生が晩年、病を隠してテレビ出演をし、イスラーム問題について熱く討論されていた映像が思い起こされた。もし今もご健在であったならば、欧州の現状について何をおっしゃっただろうか。
今でも、仏訳をクリックして、アンヌ=マリー先生のお名前を見る度に、深い感慨にとらわれる。
ところで、フランス(フランス内務省http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161022)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161028)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170131)、政策シンクタンクカトリックのモダン・チャーチ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170325)、イスラミスト団体の代表との会合、サンドニの大聖堂(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161106)など)で二日間、パイプス旅団を導いてくださったフィリップ・カーセンティさんより、昨日、新刊本が届いた。

Renaud Camus avec Philippe Karsenty
"2017 dernière chance avant le Grand Remplacement : Changer de peuple ou changer de politique?"
La Maison d'Edition, Paris, 2017

セム主義、統計と社会学植民地主義、英国離脱、トランプ大統領選、オバマ時代、プーチンフランソワ・フィヨンサルコジ時代、オランド時代、マリー・ル・ペン、バット・イェオールのユーラビア、メディアの役割、近東問題、エルサレムイスラエル等、ざっと目次を見ているだけでも、凡その内容を察することができそうである。予想よりは、あっさりしたインタビューだった。
パリのホテルで夕食の時、三人のジャーナリストが招かれ、各10分ほど英語でお話をされたが、パイプス先生によれば、その夜が「歴史を作った」。というのは、ちょうど私の前に座られたその一人のルノーカミュ氏とフィリップさんの初対面をセッティングしたからであり、その後、フィリップさんがカミュ氏をインタビューしたことによって、一冊の本に仕上がったからである。

北アフリカ系にルーツを持つユダヤ系フランス人のフィリップさんは、サルコジ元大統領も住んでいた富裕層の多いヌイイの副市長を務めている方で、2000年の第二インティファーダのガザ紛争を報道した国営テレビ・フランス2の映像がフェイクだったと訴え続け、2004年秋から、体制に正面から挑んで法廷で争ったという、何とも勇ましい人だ。その理由は、「これを許したら、21世紀の血の中傷の再現となる」という信念からだったそうである。
この詳細については、旅の間にフィリップさんが旅団に配ってくださった本が非常に参考になる。

Esther Schapira/Georg M. Hafner
"Muhammad Al Dura:the TV Drama-Our Search for the Truth in the Middle East Media War"
La Maison d'Edition, Paris, 2016

その係争を物心両面で支えてきたのが、中東フォーラム(http://www.meforum.org/2765/al-dura-hoax-karsenty)(http://www.meforum.org/3076/muhammad-al-dura-hoax)とパイプス先生だった。(従って、オランダのヘルト・ウィルダース氏のみにお金が渡っているのではないことに、注意しなければならない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170316)。)
2013年9月まで続いた裁判費用の寄付集めも兼ねて、理解を広く求めるために、パワーポイント片手に全米各地をスピーチ旅行して回られたようだ。アメリカとは、そういうことに関して懐の深い国で、各種ユダヤ系団体、教会、大学、コミュニティーセンターなど、2ヶ月ほどの米国滞在の間、「招かれればどこへでも行く」とおっしゃっていた映像もあった。
残念なことに、一時は「私達の勝利。真実が勝った」と喜んでいた2008年を経て(http://www.meforum.org/1998/philippe-karsenty-we-need-to-expose-the-muhammad)、結果的には逆転敗訴となり、2013年9月には、中東フォーラムが約150万円相当の罰金を肩代わりしたようである(http://www.meforum.org/3620/al-dura-libel)。体制側にとっては、余計な騒ぎを起こされて「名誉毀損」だからだという。


....と、パイプス先生の長年の幅広い活動について説明を始めると、話は尽きないのだが、この二ヶ月ほど、突然の右目のヘルペスにより(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170306)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170325)、積み上がった予定を前向きにこなす流れを一旦止め、ゆっくりとした時間ができた途端、いろいろと考えさせられるようになった。
これをいつまで続けるのか?
実は、昔の長い論文などは、現状を振り返る上で今でも参考になると思うし、ブログのトピックなども、落穂拾いのようで面白いものもある。途中訳の原稿下訳は、かなり溜まってもいる。だが、パソコン画面とはとかく目が疲れやすい上、適切な訳語を探してあれこれ背景を調べているうちに、ちょっとした作業でも、どんどん時間が経過していく毎日である。本来の自分の予定は、脇に置いたまま、山積みになる。
英語で読める人ならば、何も日本語に頼らなくてもいいのではないか?
私達にとって必要なのは、欧米が困っている過激派イスラーム・テロ事件を断固防ぐべく、移民問題を安易に考えず、国境管理を厳重にして、昔のようにもっと社会結集力を高め、同じ問題を繰り返さないようにすることである。
その他の文化的イスラミストの注入問題については、日本古来からの知恵と伝統を強化していき、学問的に「オリエンタリスト」による古く定評のある専門文献を見直すことによって、自ずと道は開けるであろう。簡単に影響されないような、識別感覚を身につけるような、しっかりした教育を子ども達に与えるべきである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160321)。
....などと、繰り返し思い巡らしている。
ちょうど半年前になる欧州の旅については(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161007)、この頃、ようやく具体的に書けるようになった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170327)。長らく気にはなっていたのだが、帰国直後に、メモを見ながらあれこれ概要を紹介するよりは、所詮、移民政策やムスリム状況が異なる上、言語文化の違いもあるため、もう少し長いスパンで、背景も含めて考えながら綴った方がよさそうだと、今なら思う。
中東フォーラムの活動について、日本では、ミアシャイマー=ウォルトの『イスラエル・ロビー』の本の影響もあって(http://ja.danielpipes.org/article/14741)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120803)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120807)、かなり一部だけが突出したかのような悪い印象を与えたまま、2012年春に至っていたが、もし私のささやかな経験がご参考になるならば、と願う。
ダニエル・パイプス氏という方は、三年連続してお会いした限りでは、知的ではあるが、個性が強くて、一筋縄ではいかないことは確かだ。また、昔の関係者が亡くなっていることもあってか、最近になって古いニュース記事を引用して、思いがけないエピソードをツィッターで語られることもある。かつては尊敬し、支援していた方達も、考えや態度がまるで変容されて、ショックを受けていることもある。
長らく、北米の中東研究の政治化を批判されているが(http://ja.danielpipes.org/article/12184)(http://ja.danielpipes.org/art/cat/47)、私が見るところ、最初からパイプス先生ご自身の方こそ、レーガン時代に大統領補佐官を務められたお父様に倣って(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170316)、政治的に学術知見を援用されてきたのではなかったか?勿論、その中心軸は、敵国に囲まれたユダヤ人国家イスラエルの安定的な発展と安全保障であろうが、通時的かつ共時的に、イスラームと政治を主題として、ムスリム世界全体を縱膻に眺め渡し、観察し、記述を積み重ねて分析を続けて来られた。
言論や社会動向を分析した結果、左派ではなく右派に、民主党よりは共和党に、世俗派よりは宗教保守派に援軍を求めて、国内では東海岸、西海岸、テキサスやフロリダなどに拠点を作り、国外では、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドイスラエル、フランス、英国、スペイン、ポーランド、ドイツ、スウェーデンデンマークなどに人脈を広げ、中東ではトルコ(2012年まで)、エジプト、ヨルダン、そしてインドまで足を伸ばして、講演や討論やテレビ・ラジオ出演を精力的になされてきた。イランやアラブやロシア系のテレビ番組にも出演されている。使用言語は、英語、フランス語、アラビア語である。
本来は、お父様の跡を継いで、大学で中東学者として教鞭を取り、高度な研究を進め、弟子を作り、中東政策にも影響を及ぼしたかったのであろう1980年代半ばまでの歩みを振り返ると、悲喜こもごもである。ちょうどその転換期に、三ヶ月の日本滞在が挟み込まれており、公私共に、生涯決して忘れ難いはずである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161028)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170119)。
恐らくは、そこにご自分の執筆文が日本語になるのを見たいと希望された理由があるのであろう(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120401)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120606)。
とりとめもないが、私的ブログだから、自分の思考の整理も兼ねて書き綴ってきた。振り返ると、膨大な時間やエネルギーを費やしているが、本当に意味があるのだろうか、時々不安にもなる。