ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

続・ここ二十年ほどのうちに...

昨日は成人式だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150113)。
我が町では、いつの間にか「成人祭」と改称されているが、親離れして、心身ともに社会人の仲間入りとなる門出の厳かな式であるべきものを、楽しくはしゃぐ気楽なお祭りにしてしまう点、かなり問題が含まれていると感じている。
ちょうど二十年ほど前から、確か高知県だったか、成人式で騒ぐ若者(馬鹿者)がニュースになっていたが、昨日の京都北部を瞥見の限りでは、多少は落ち着き、振り袖姿が華やぎ、私の頃にやや戻った印象だった。だが、相変わらず、茶髪あるいは銀髪の姉ちゃん兄ちゃんもいたし、髪型や着物の意匠や帯結びなどが、現代風というよりは派手過ぎ、あるいは崩し過ぎの人も混じっていた。
それに、初々しさというよりは、既にオジサン・オバサンの仲間入りをしているかのような態度の、恰幅が良過ぎる(?)成人も歩いていた。
これは、京都の岡崎公園近くを歩いていて感じたことである。
成人式を1月15日から9日に早めたのも意味不明だが、どんどん日本文化の型が崩れていっているようで、極めて残念に思う。
女の子達を眺めていると、いかにも育ちが良い娘さんで、将来は幸せな暮らしを営みそうな女性のパターンが直感的にわかるようになってきた。それは、必ずしも社会階層(学歴、経済状況、居住地、美貌など)とは直結しない。なぜならば、持って生まれた血筋は、本人の努力によって変えられるものと変えられないものがあり、後者を無理にいじることが幸福につながるとは決して言えないからだ。躾が行き届き、挨拶がきちんとできて、朗らかで素直で賢く、気働きが利き、分に応じた暮らしを営み、丈夫そうな女性がいい。

岡崎公園近くへ出掛けたのも、本来は京大の会合に出席予定だったのを、標識がなくて会場が不明だったために、しばらく道に迷った挙げ句、途中で取り止めたからであった。
その代わり、しばらく前に私鉄駅のポスターで知った、国立近代美術館での「茶碗の中の宇宙」と題した楽家の展示を見てきた。スーツを着ていたので、ちょうどよかった。
ポスターには何も書かれていなかったが、物は試しと朝日友の会のカードを提示すると(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110504)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150404)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160513)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161109)、割引料金にしていただけた。また、生憎のお天気だったにも関わらず、大勢の人々が集まっていて、お茶会風の淡麗なお着物姿の女性も少なくなく、若い男性もフォーマル・ジャケット姿で熱心に眺めていたのには感銘を受けた。
ここでは、むしろ、本来の日本が戻りつつあるようで安心した。
侘び寂びの極地である佇まいの渋い樂茶碗から、現代の凝った華やかな茶碗や水差や茶入など、十五代続いた楽家の変遷を知ると同時に、16世紀から今に至るまで、底流で通じている粋を感じた一時だった。
二十年以上も前、名古屋でお茶を習っていた時の大先生が、「お点前だけでなく、何でも勉強しなければならない。書もお花も絵画も陶芸も禅も...」とおっしゃっていたことを、しみじみと思い出す。当時は(それはそうだけど、私にはお金がない!)と内心、悲痛な思いでいたことと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161217)、(だからこそ、時間もお金もやり繰りをして、寸暇を惜しんで学ばなければならない)と固く決心したことも、合わせて思い出すことである。
最後に、京大の掲示板で見かけた職員組合の主張について一言記す。
(労働)組合ならでは、また左派思想が伝統的に強いと言われる京大ならではの見解なのかもしれない。該当する当事者にとっては、必死の抵抗であろう。
2014年度から8年かけて、職員の10.7%(160人)と教員の9.0%(282人)の削減が予定されているとのことである。また、京大に勤務しているとはいえ、五年雇用が通例となった今、勤労者の権利として「働き続けたい」という叫びであった。
だが、部外者の私にとっては、大変に申し訳ないが、ここまで日本の大学の競争力が低下し、ひいては国力も凋落している状態が二十年ほど続いてきたならば(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091125)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161220)、起こるべくして起こった事態ではなかろうか、と思われる。
例えば、民間企業の研究所などは、とうの昔から、もっと厳しい環境下で懸命に働いてきたのだ。その状況にある主人などは、結婚後一年で診断を下された原因不明の若年性の進行性難病と共存しながら、大変な思いで仕事を続けてきた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080215)。また、昨今では、同じ大学院で同じ専門教育を受けながらも、就職先が違ったばかりに、経営悪化で首切りに合っている仲間も少なくないのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151220)。
お医者さんや保健師さんの助言もあり、何とか通常の暮らしを続けていくために周囲の理解は求めてきたが、難病だからといって、働きもせずに手厚く介護される権利を声高に要求してきたのではない。
そういう私の立場から見れば、国立大学だから、著名大学だから、一旦職を確保した以上は一生安泰だと、あたかも特権階級のように安穏とした甘い気持ちがあったのではないだろうか。
この制度によって、期間内に切られそうな人の顔ぶれが目に浮かぶ。外国人教員や非常勤講師も含むのか、専任教員のみが該当範囲なのかは不明だが、削減される人数は事務職員よりも教員の方が多いこと、既に削減対象が把握できていることに留意。
いただいたお年賀状にも、今の大学は、研究や教育よりも、事務行政の負担に忙殺されていると記されていたものがあった。還暦を迎える教授からである。