ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

憂慮すべき教育政策と弱体化

フェイスブックhttps://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)からの転載を以下に。
何年も前から、このブログでも身近な事例を引いて紹介し、喚起を促してきた事柄と深く連動している。つまり、従来から綴ってきた内容は、単なる私の愚痴や悪口ではなく、客観的な裏付けが取れる事象だったということだ。

http://www.dailyshincho.jp/article/2015/12251510/?all=1


・「厳しく叱ってしつける」よりも「ほめていいところを伸ばす」という教育方法の方が幅をきかせている。「ほめて育てる」「叱らない子育て」といったフレーズを耳にすることも多い。
・「ほめて育てる」という教育のせいで、自分勝手な若者やひ弱な若者が増えているのではないか
・最近特に自分勝手な自己主張をする学生が増えたと感じたことがきっかけだという。...
・「義務を果たさなくても叱られない。いつも親がほめるべき点を探してほめてくれ、良い気分にしてもらえる。そんな子育ての結果、どのような人間がつくられていくのかということについて、ちょっと真剣に考えてみる必要があるだろう」と問題を提起している。

(部分抜粋引用終)
これに関連する過去ブログは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120225)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160225)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160228)。

http://www.dailyshincho.jp/article/2016/05100400/?all=1


2012年、政府は『グローバル人材育成戦略』をまとめ、産学官オールジャパン体制で、『グローバル化』する国際情勢にあわせ、大学生をグローバル人材として育てる大方針を打ち出しました。その具体策のひとつとして、文科省14年に37校のスーパーグローバル大学(SGU)を選定しています」
皮肉なことに、世界大学ランキングにおける順位アップを目指してSGU制度がスタートしてから、日本の大学は国際的な評価を低下させてしまったわけだ。


(「特集 『グローバル教育』を掲げて 『東大』世界ランキングを下げた『文科省』の大矛盾」)

(部分抜粋引用終)

http://www.dailyshincho.jp/article/2016/05120400/?all=1


政府は、グローバル人材を定義する要素のひとつとして、主体性やチャレンジ精神、柔軟性などのいわば「人間力を挙げている。これは、人としての教養、素養と置き換えることが可能であろう。だが昨年6月、文科省突如、「人文社会科学系学部の統廃合」を進めよと、国立大学の教育現場に通知した。とどのつまり理系と違い、哲学や文学といった、ビジネスに直結しない点では「無駄」な文系学部のスリム化を図れというわけだが、人間力の涵養には文系的な教養、素養が不可欠であるのは論を俟(ま)つまい


(「特集 『グローバル教育』を掲げて 『東大』世界ランキングを下げた『文科省』の大矛盾」)

(部分抜粋引用終)
この「グローバル人材」などについては、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141020)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150926)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160724)を参照のこと。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170101-00514754-shincho-soci&p=4


・戦後の日本では、学制改革に当たり、大学入学後の2年間を教養課程と称し、理系の学部に入学しても、人文科学と社会科学を3科目ずつ、そして2カ国語を学ぶことが必須とされていた。
1991年7月に施行された大学設置基準の「大綱化」により、一般教養科目区分(人文・社会・自然科学、外国語、保健体育)も、専門科目と教養科目の区分も廃止された。それに伴い、多くの大学で教養課程または教養部は消滅した。その結果、日本の大学からリベラルアーツは姿を消し、大学4年間を専門基礎・専門科目の学習に費やすこととなった。従って大学入学後、工学部生は人社系教養科目の学修を避けて通れるようになったのだ。
・こうした一連のリベラルアーツ軽視の文教政策が、日本の電子産業の国際競争力を劣化させた
・〈文系軽視は日本を滅ぼす〉という世界の「常識」

(部分抜粋引用終)
過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161209)もどうぞ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5456


・戦後、多くの若き日本人には、資産や住居をなくしても“明治の精神”、言葉を換えて言えば“大和魂”が伝授されていた。
・その廃墟の中から日本人は立ち上がった。今となってはその多くの方々が寿命を全うされた年代層であるが、獅子奮迅、家庭も顧みず猛烈に働いて日本を再び立派な経済大国にまで引き上げてくれた
・片や、占領政策によって“戦前は日本人として当然の躾事項として教えられていた宝物のような精神”が戦後生まれの若者教育には“古く誤った考え方”として排除され個人主義というよりは利己主義”が推奨され無責任な自由主義を徹底的に植えつけられた
・当初は占領軍の政策によってそのような教育指導が進められたが、次第に左翼勢力が教育界を牛耳るようになり、占領軍の目論み以上の堕落と左翼的偏向教育が日本人自身によって行われるようになった。
・その結果、戦前の教育を受けた年代層が現役を退陣し、戦後教育に毒された世代がリーダーとしての地位を占めるのに時を合わせ、日本は凋落を始める
・その害毒は今や、日本の多くの国家機関・地方自治体・各種組織・会社に至る隅々まで癌細胞の様に蔓延し、特に深刻なのはリーダーの資質が情けなくなるほど劣悪な状況を呈していることである。
・要するに、リーダーとしてあるべき教養と資質の空洞化が日本社会の屋台骨として支え得る強度・耐力を著しく低下せしめ、国力全体が弱体化しているのである。

(部分抜粋引用終)

http://www.seisaku-center.net/node/407


若者の急速な学力低下や今や常態と化した観のある学級崩壊など、わが国の教育の惨状は目を覆うばかりである。昨年末、首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の最終報告が教育基本法の見直しを打ち出したのも、今や崩壊しかけている戦後教育を根本的に反省しようとする動きの一環だと言えよう。
・もちろん、一概に戦後教育といっても、さまざまな捉え方ができるだろう。しかし、その最大の特徴は、「個人の価値」を唯一最高の指導理念とみなしてきた点にあると言えるのではなかろうか。さしずめ、教育の目的を「人格の完成」とする教育基本法は、この戦後教育の特質を明瞭に示していると思われる。この点で、戦後教育の根本的な反省にとって、教育基本法の見直しが避けて通れないことは明らかだ。
・とはいえ、戦後教育の基本路線は、単に教育基本法によってのみ作られたのではない。言うまでもなくその大枠は、日本国家が主権を失い、言論の自由もなく、国民の多くが自国の文化伝統への自信を奪われた占領期における様々な出来事を通して作られた。考えてみれば、占領期という異常事態の中で、本来民族固有の文化に基づいて営まれるべき教育のあり方が根本的に改造されてしまったことは恐るべきことである。

(部分抜粋引用終)
祖母がよく、「自分一人で大きくなったと思って...」と私の前でつぶやいていたが、今にしてその意味をつくづく実感するところである。「今はそれでもいいと思っているかもしれないけど、おばあちゃん達みたいに、戦前の教育を受けて、戦争に負けて、ガラッと変わった戦後を知っている者から見れば、その考え方は間違っているよ」と。
外的要因としては、戦後教育の弊害ということなのだろうが、内的要因としては、家族や親族関係の基本原則が崩れていったということであろう。
テレビ・ドラマや全国版新聞の人生相談欄でも、嫁姑の確執が殊更に取り上げられていたし、夫婦間の浮気や男の不甲斐なさばかりを強調するテーマが人気だった。長男長女、つまり将来の一家の長たるべき第一子への期待値に基づく重点教育から、兄弟姉妹が皆一律に平等化し、対等化する「友達家族」が理想とされた。
一方、団塊の世代は「学生結婚」がはやりで、その後は「DINKS」で楽しく暮らし、「トレンディ・ドラマ」さながらに颯爽と都会生活を送っていた。その後の新人類世代の我々は、反抗もせず、規格化された人生路線を疑問を抱かずに歩んでいると揶揄された。
どちらにしても、二十代までは許されたとしても、三十代から四十代になれば、そろそろ社会の荒波に揉まれて、いい加減、目を覚ますべきだったのだ。
いわゆる団塊の世代は、四十歳前後までは着る物も住む所もカッコよく、ファッショナブルに見えたのだが、五十歳を過ぎると急に老けて、(これが本来の姿だったんだ)と身元正体がわかるような風貌になっている人が目立つように感じる。
一方、田舎だとか野暮だとか言われながらも、古来からの自然に沿った基本生活を淡々と送ってきた人の方が、むしろ、栄養状態も上がり、生活が楽になった現在では、若々しく生き生きと見えるのは、なぜだろうか。