ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

屋久島の旅

二泊三日で屋久島へ行ってきました。主人の勤務先から、少しは有給休暇を取るようにと言われたこともあり、年末で慌ただしい時期ですが、思い切って出かけました。
とはいえ、突然思い立った旅ではなく、二ヶ月ぐらい前から、主人が帰宅後、洋間の自分のパソコンの前で、時間をかけてカシャカシャやっいて、勿論、計画は全部、主人が立ててくれました。私の役目は、帰ってから、レシートやパンフレットを整理して家計簿につけたり、このようにブログで記録を綴ること。予習型が主人で、復習型が私、というわけです。
夫婦旅行は、主人の体が不自由で声が出にくいため、何をするにも時間が二倍三倍かかり、一緒にいて動きのズレが感覚的に疲れて、ストレスから喧嘩になることもありましたが、一人よりも二人の方が、見聞を広める上で大変に楽しく、何よりも安全で経済的だということが、歳を取る毎に実感できるようになってきました。
国内旅行ばかりしているようですが、それもこれも、実は主人の難病の進行を少しでも食い止めるための一療法を兼ねています。「体が動かなくなる前に、いろいろな所へ行っておきたい」と言っていますし、かつては二度も米国東海岸に留学と勤務で滞在し、その後も毎月のように米国出張をしていた主人だったので、ここ数年の私達の旅の行動範囲は、いわば代用でもあります。
それに、国内経済の活性化に少しでも貢献したいのです。近隣諸国の成金小金持ちに外貨を落としてもらうというやり方は、あくまで一時的な対処療法であって欲しい。アジア系の旅行者に対処するために何かとお金も手間もかかることは、既に現場の人々が経験済みではないでしょうか。だからこそ、中高年の我々日本国民こそが、次世代や次次世代に負の遺産を残さないよう、しっかりと行動しなければならないと自覚しているのです。
ところで、つい最近まで、国内外の女の一人旅は、体調管理をして、危険を避けて冒険さえしなければ、私でも大丈夫だという気概はあり、確かにこれまで事故や事件に巻き込まれたことはありません。でも、やはり年齢相応のお金や時間の使い方というものがあり、体力調整も踏まえると、意識の上では若い時期の感覚のままであっても、その勢いで実行に臨むべきではないことを思います。お金と時間には余裕を持っておくことが、人生の秘訣だということです。
屋久島そのものは、文化が栄えて活気があるので好きになった鹿児島市内の地下を歩いていた時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140209)、壁に大きく掲載されていた広告を見て、どうやら私が「あそこに行ってみたい!」と言ったのだそうです。すっかり忘れていましたが、主人はその一言で(次の国内旅行は屋久島だ)と決めたそうで、冬場ならば温かい南国へ、と。
屋久島と種子島の両方を考えたものの、やはり時間的に無理そうだということがわかり、屋久島に集中。とはいえ、移動時間から、実質一日のみの滞在でした。
種子島と言えば、宇宙開発センターと鉄砲伝来のフランシスコ・シャビエル(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090224)を思い出しますが、なぜ種子島だったのか、ということを改めて納得。
というのは、近くの島々であっても地形が全く異なり、平地の種子島に比して、屋久島は丸くて豊饒。近年では、北方領土http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130505)や尖閣諸島http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130605)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130927)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150822)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160718)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161015)や竹島http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150421)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160222)を中心に国土領域や国境線に一般の関心が高まっているものの(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140530)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160624)、本州育ちはよろず政治面で考える傾向にあり、本質的な島の価値に気づくのが遅れがち。でも、久米島http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110308)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161020)や屋久島を訪れてみて、(日本の領土は日本人のもの。大切に守らなければ)という気持ちが強まってきました。
実際には、皇太子ご夫妻が訪問されたとかで有名になった縄文杉へは、時間(往復8時間から10時間とのこと)と体力の関係から断念。その代わり、午前中はツアーを頼み、午後はツアーのガイドさんに教えてもらった白谷雲水峡への行程で、紀元杉と弥生杉を見て回りました。
杉そのものは、現物を見ると、落雷で上部が折れていたり、本州の都市部のように整備されているわけではないので、(なるほど)という感触。でも、屋久島に住む人々が、古来から杉の木を神木として大切に伐採せずにいたため、年輪の細かな長寿の大木へと育ったという話には、エコ・ツーリズムではないものの、多くを考えさせられます。つまり、神木ではなく、普通の木として昔から伐採して生活に利用していたら、このような年輪を持つ樹木が残らなかったということです。
私の住む小さな町は名水が湧き出て、小高い山々や滝にも恵まれているため、言うまでもなく、緑が多くて大木も少なくなく、毎日のように自然に無料で森林浴をしているという贅沢な環境。なので、屋久島ならではの特徴と言えば、やはり広大深淵な歳月の重みをさらに実感するということ以上に、ウィルソン博士のように、英国人で長らく中国で苦労して調査をしていらした方が、日露戦争勝利後の別世界のような日本へ来て、屋久島の話に魅了されたということが挙げられます。換言すれば、いわゆる「オリエンタリズム」の政治操作との兼ね合いで、西洋に対する日本人と中国人の相違を改めて考えさせられ、日本はなんて幸運だったのだろうということです。
そのこともあってか、外国人をよく見かけました。島の東半分を二度はバスで往復したので、バス代の高さもさることながら、景色を何度も目に焼き付けて覚えることができ、植物学者にはぴったりの環境だろうと思った次第。但し、世界的に屋久島が有名になると、当然のことながら、環境破壊へともつながるようで、そのための募金もありました。
モッチョム岳と愛子山の名前は、絶対に忘れられません。
温泉は肌がつるつるになると評判で、朝晩、(露天風呂を含めて)四回も堪能しました。
食事には、毎回のように飛魚が出てきて、地元名産の薩摩揚げやお刺身のお造りや羽までパリパリの唐揚げなど、つい私も跳躍したくなるようなお料理でした。
植物ガーデンには「マラヤ原産」とある植物が多くて、「何だかマレーシアに来たみたい」と、一人ではしゃいでしまいました。赴任直後にマラヤ大学で熱帯植物の研究者だというインド系(だったと記憶する)男の先生に誘導されて、同僚と共に珍しい熱帯植物を案内された十数年前の経験が、ふと蘇ってきました。真冬なのに、品種改良をしたというハイビスカスが鮮やかに大輪の花を咲かせていて、それを見ていると、英国がマレー半島を手放したくなかった理由を改めて再認識したような気がしました。つまり、地元のマライ人は、伝統的に、せっかく恵まれて豊饒な天然の植物や資源を自ら研究して開発するということをせず、あるがままにしておいたために、後にやって来たはしこい英国人が研究調査を進めて開発し、学術のみならず、経営までして利益を得た、という背景の違いです。
だから、民族自決イスラームイスラームと殊更に言論武装して、石油資源を利用して、我々を含む旧宗主国などへ異議申し立てをし、世界秩序を変容させてきたのが、戦後の世界史だというわけです。
交通機関については、「行きはよいよい、帰りは怖い」の童謡を文字通りなぞった次第。というのは、阪急バスに乗り、阪急電車豊中まで出て昼食の後、モノレールで伊丹空港まで行き、鹿児島でプロペラ機に乗り換えて屋久島へ到着したのが行きならば、帰りは、早起きして準備したものの、屋久島空港に到着すると、飛行機の故障が見つかったのでキャンセルになったとの由。同じホテルには夫婦で四泊ものんびり滞在している方達もいたようだが、我々はまだ現役世代で、そこまで余裕がありません。
カウンターの若いお兄さんは「では、一泊して明日帰るとか」「夕方六時の便なら取れます」などと簡単に言うものの、こちらは難病持ちで疲れてもいる。さらに、翌日には会社の忘年会まで待っている上、その次の日は大学病院で検査結果を聞くというように、予定が目白押し。いくら屋久島が気に入っていても、そうは言っていられません。
そこは日米間の難しい交渉もこなしてきた主人だけあり、鷹揚な調子でさり気なく押しの強さを発揮し、結局は、実費以上の返金を日本航空からいただいて、高速船に乗り、鹿児島から新幹線で戻ることになりました。
高速船を下りると、前日の午前中にお世話になった女性ガイドさんも一緒だったようで、もう一度お礼が言えました。聞くところによれば、ホテルの受付やガイドの仕事は、必ずしも屋久島育ちの人がするのではなく、鹿児島や熊本育ちの人が船などで通って従事しているらしいです。
何となく、マレー半島を外来移民のインド系や華人が経済発展させたり、生粋の京都人ではなく、よそ者が京都を発展させたという話(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141124)に少し似ているかな、と思いました。
宿泊したホテルや高速船の待合室の壁に貼ってあった子ども新聞を読むと、大人達がどのように島を考えているかがわかり、それも興味深かったです。
昔は当然のように、国内旅行は陸路で、と思っていたのに、時間と揺れによる体力の消耗から、飛行機を利用するのは中高年から増える理由が、今回はよく実感できました。
我が家用のお土産は、屋久杉の夫婦箸置き、屋久島の塩、グアバ葉のお茶でした。