ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

職業としての翻訳

少し脇に逸れて、翻訳という作業について日頃考えていることに合致する文章を見つけたので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120525)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120606)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130715)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160412)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160825)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160912)、ここに部分抜粋を掲載する。

http://www.eigotown.com/culture/story/nichigai/honyaku3.shtml


「翻訳とは何か 職業としての翻訳」日外アソシエーツ株式会社


山岡洋一(1949年、神奈川県生まれ。経済・経営・金融分野を中心とする出版翻訳と産業翻訳にたずさわる。)


【著者からのことば】
翻訳は地味な仕事だ。縁の下を這いずりまわり、ない力を振り絞っているのが翻訳者だ。だが、その役割は決して小さくはない。外国のすぐれた文化、知識、情報を日本人が日本語で吸収できるようにするのが翻訳の役割である。それによって、明日の日本文化を支える基盤を築く一助になるのが翻訳である。 このような重要な役割を担っている点を考えれば、翻訳とは何か、翻訳とはどういう職業かについての真剣な議論がほとんどないのは残念なことだ。翻訳が気楽な副業、気楽な内職になるかのような話ばかりが目につく。翻訳という仕事を軽く見る傾向が、翻訳の学習者や翻訳教育関係者、翻訳書の読者、そして一部の編集者や翻訳者にまであるのは心痛むことだ。


第5章 翻訳者への道 翻訳学習者の奇妙な現実


・翻訳学習者の急増がなぜ奇妙だと思えるのかは、簡単な事実をみてみればすぐにわかる。翻訳学習者は最大手の翻訳学校だけでも四万人になるというから、少なくとも六万人から七万人、多ければ十万人を超える。


一家の生活を支えられる収入がある翻訳家の数は少なければ十人を上回る程度でしかない。ここに何万人もの学習者が押し寄せてきても、一年あたり一千人から一万人にひとりが目標を達成できるにすぎない。


・翻訳学習者の多くは本気でプロを目指している。いい年をして、野球少年ほどにも世間を知らないように思えるのだ。


・翻訳学習者の急増をみて、翻訳者が心穏やかでないといっても、競争相手が増えるからではない。事実は逆だ。本来なら翻訳など考えるべきではない層にまで学習者が広まって、力のある新人が登場してこなくなっているのではないかと心配になるのだ。翻訳は十年二十年の経験の蓄積が重要な仕事なので、大家と新人では実力が段違いなのが普通だ。


・もっと溜め息がでるのは、翻訳学習の動機を聞いたときだ。ほとんどの人の答えが、得意な語学力を活かせる仕事をしたいから、自宅でできる仕事だからのどちらかなのだ。この答えになぜ溜め息がでるかは、たとえばすぐれた翻訳家がたどってきた道筋をみてみれば理解されるだろう。


・第一の道筋として、原著または原著者に心酔し、それを自国に伝えたいと熱望して翻訳に取り組むようになった翻訳者が少なくない。翻訳の歴史に名を残す偉大な翻訳家には、この道筋をたどった人が多い。第2章で紹介した偉大な翻訳家のなかでは、玄奘ティンダルが典型だろう。原著や原著者を自国に紹介する方法は翻訳だけではない。評論や研究書を書く方法もある。だから、この道筋をたどってきた翻訳家は同時に評論家であったり、学者・研究者であったりすることが多い


・第二の道筋として、現役の翻訳家に多いのは、たとえば小説を書こうと修業を積んできた人が、どこかで翻訳に転じるものである。似た例をあげれば、新聞記者、学者や研究者などから翻訳に転身した人もいる。少し性格が違うが、編集者から翻訳者に転じた人も多い。たいていの場合、三流のものを自分で書くより、一流の原著を訳すほうがいいと考えて、翻訳に転じている。


・つまり、この道筋を歩んできた翻訳者は、自分に課す基準が高い。翻訳の際にも当然、基準を高く設定している。簡単には妥協しない。だから、一流の翻訳家にはこの道筋を歩んできた人が多いといえる。


第三の道筋として、時代の要請に応えて翻訳に取り組んできた翻訳家がいる。(中略)蘭学は語学ではないし、オランダの医学に限定されたものでもない。西洋医学を学ぶには、当時のヨーロッパで発達しつつあった自然科学の全体を学び吸収する必要があった。このためもあったのだろうが、黒船来襲によって時代の要請が医学から兵学に変わったとき、村田蔵六は「業績不振」の家業を閉じて、まったく専門外の兵書の翻訳に転じている。


・以上三つが翻訳者への自然の道筋だとするなら、翻訳学習者のほとんどは、不思議な点を学習の動機にしている。自宅でできる仕事を探したら、翻訳があったという。たぶん、十坪を超えるほどの書斎とそれ以上に広い書庫が自宅にあって、お手伝いさんが何人もいるほど恵まれた方なのだろう。在宅勤務の陥穽については第6章で取り上げるが、翻訳は狭い自宅で内職としてできるほど簡単な仕事ではない


・得意の語学力を活かした仕事をしたいという動機はもっと奇妙だ。まず、英語力を活かすのなら、もっと楽で収入の多い仕事がいくらでもある。国際機関や外資系企業に勤める方法もあるし、外国ではたらく方法もある。


・翻訳とは語学力を活かした仕事ではない。何よりも日本語でものを書く仕事である。


・もっと奇妙なのは、得意なはずの英語力がいかにも心もとないことだ。翻訳学習者のほとんどは、翻訳学校などでそう教えられるためか、日本語らしい日本語を書けるようにすることが課題だと考えている。


・得意なはずの英語力が翻訳はもちろん、英文解釈の水準にすら達していない。第3章で触れた外国語読解力の三段階でいえば、第一段階ですら力不足といえる人がほとんどだ。第二段階に達して道具として外国語を使いこなせるようになっている人は数えるほどしかいない。これまでの英語の本を何冊読んだかと質問すると、十冊以下という人がほとんどであり、たいていは学生のときに授業で数冊読んだ程度にすぎない。英語の読解力の点で実力を飛躍的に高めなければ、翻訳学習者は翻訳者にはなれない。ところが、翻訳学習者の多くは語学なら得意だと考えている。自信をもってはいけない点に根拠のない自信をもっているのだ


・異様なのは、翻訳学習者が翻訳という仕事にあこがれている点である。翻訳はあこがれるような仕事ではない。苦労は多く収入は少ない


・翻訳者は物書きの端くれだ。(中略)そもそも物書きとはヤクザな稼業なのだ。もちろんなかには一流になって世間の尊敬を集めるようになった物書きがいないわけではないが、それはごく一部の例外か、世間の誤解によるものだ。


司馬遷が『史記』の「太史公自序」に書いている。孔子は世間に受け入れられないことを知って『春秋』を著し、屈原は追放されて『離騒』の詩をうたい、孫子は脚切りの刑を受けて兵法を書いた。『詩経』は大部分、聖人賢者が憤懣を発して作ったものだ。これらの人は心に何らかの鬱結があって、その捌け道がなかったのだと。名著は、「聖人賢者」が生き恥をさらすような状況から生まれるのだと(小川環樹他訳『史記列伝』岩波文庫、第五巻一九二ページを参照)。


・西欧近代でも、状況は変わらなかったようだ。アダム・スミスによれば、物書きとは聖職者になるために教育を受けたものの、何らかの理由でなれなかった者であり、もともとは乞食とほとんど同義だったという(『国富論』第一編第十章を参照)。


司馬遷が語ったのは紀元前の中国の話であり、アダム・スミスが書いたのは十八世紀の英国での話なので、いまにそのまま当てはまるものではない。だが、何らかの理由で社会のなかに安定した地位を確保できなかった者が物書きになることは、当時もいまも、おそらく変わっていない。物書きとは、社会からはじき飛ばされたか、社会にすっきりと入り込めなかった者の行き着く先なのであり、だからこそ、力があり、意味があるものが書けるのだ。


・いまの時代には、物書きの世界のなかですら、翻訳者はまともな地位を確立できていない。翻訳者が物書きなら、蝶々蜻蛉も鳥のうちといわれかねない立場だ。心に何らかの鬱結があって物書きになろうとも、聖人賢者ではないために名著を書けるはずもない者が選ぶのが、翻訳である。世間で肩身の狭い物書きの世界のなかですら、肩身の狭いのが翻訳者である


・この世界になぜあこがれるのか。おそらくは、友人とか親戚とか、ごく狭い付き合いの範囲に、物書きかそれに類する仕事をしている人がひとりもいないからなのだろう物書きがどういう人間なのかを知らない。だから、知的な仕事という印象をもっている。


・翻訳者になれないまでも、翻訳を学習しているというだけで、友人や親戚に自慢できるのだろう。友人や知人に自慢でき、友人や知人から称賛を受けられるという点は、きわめて強い動機なのだ。


・翻訳者になれれば自慢できると考えている人、自分の名前で訳書がでれば大感激だという人は、そもそも翻訳には向いていない。


・翻訳学習者が翻訳にあこがれているのをみると、異様だという印象をもたざるをえない。翻訳にあこがれているのなら、翻訳という仕事の性格をよくよく考えてみるべきだ。翻訳者とは、あこがれてなるようなものではない

(部分抜粋引用終)
「物書き」とは、あまりいい響きがしないが、執筆業に携わっている人が謙遜して自称する場合に用いることが多い。もっと下品な言い方だと、「ブンヤ」という言葉を大学院の時に初めて耳にした。

このような執筆業の社会位相の現実について直言されてきたのが、私の知る限りでは曽野綾子さんだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160826)。