ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

憲法九条と日米安保

正味8日間にフライトと時差の関係で約10日ほどの欧州駆け足旅行から帰国して、早くも5日間が過ぎた。時差調整はできたかと思うが、まだ大量の写真やメモや買い求めた書籍類、ホテルでいただいた新聞などの整理ができていないし、出発前に中途で終わってしまった書類整理などが終わっていない。
主催者が「大学の一セメスターに相当する内容を含む」と予めプログラムに明記していたように、本当に中身の濃い、充実した旅だった。日本の旅団だったら普通は行けないような場、会えないような人々、聞けない話などに触れる機会に恵まれたのだ。それに、正直なところ、若い頃に亜熱帯途上国のマレーシアで楽しくも文化接触の苦労を重ねてきただけに、年齢を経て先進国を訪問すると、とても心理的に軽快だということを実感する。一方、最初から先進国だけに注目していたならば、欧州で席捲している左派思想に自ずと呑み込まれていたかもしれない。
幸いなことに、二年ほど前までは自転車操業で大変だったパイプス訳文のペースも、ここしばらくは、原著者自身がコラム執筆を控えているので、こちらとしても楽だ。機械翻訳を利用したり、片手間の収入源としての訳業ではなく、プロではないものの、それなりに真剣に取り組んできた結果として、今回も著者とゆっくりお話する時間が持てた。今回は私的会話を公表しない約束なので控えるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161008)、恐らく、今後の訳文のそこかしこに何らかの形で反映されることであろう。
少なくとも、日本にいて英語の記事や論考文を読んでいた時には、どちらかと言えば頭での理解が先行していたが、帰ってきた今は、主題や当事者に対して心情的に肉迫するような理解に変化している。つまり、この10日間ほどは、イマージョン・プログラムの一種変形を過ごしたのだった。
私的会話の話題には、日米関係も含まれていた。従って、少しお休みをいただいて、今日は以下の憲法問題についてのトピックを取り上げる。

http://blogos.com/article/193179/


2016年10月07日


「安保法制をめぐる憲法学者違憲論の検証――『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』は何を論じたのか」
篠田英朗


・安保法制をめぐるあの暑い夏から1年。違憲訴訟や廃止法案上程の動きがある中で、現実に南スーダンに派遣するPKO部隊の任務範囲をどうするのかが問題となっています。
・著者の篠田英朗氏は、平和構築論を専攻する気鋭の国際政治学者(東京外国語大学教授)。著者自身に内容の一部を紹介して頂きます。(風行社編集部)


憲法学者が守りたいもの


・安保法制の成立をめぐる喧騒は過ぎ去った、という雰囲気が今や各方面に蔓延している。参議院選挙も終わり、運動に参加した人たちも冷静さを取り戻している。
・学生団体SEALDsやSEALDsを担いだ団塊世代を検証する書籍などが出版されている。だが知識人たちの運動の検証はどうなるだろう。多くの著名な憲法学者たちが、安保法制が違憲であることを主張する運動を繰り広げた。彼らは本当に正しかったのだろうか。なぜ彼らは感情的になって「反知性主義」の総理大臣や国際政治学者を糾弾し、勢い余って、内閣法制局官僚群を素晴らしい知性の殿堂であるかのように語るなどということまでしてしまったのだろうか。
憲法学者は、日本社会において絶大なる権力を持っているからだ。公務員試験、司法試験、学校教科書類に至るまで、巨大な官僚機構を基盤にした前例主義や権威主義がはびこっている
芦部信喜を知らない」と述べた私立大学出身の総理大臣を「反知性主義者」と呼び、東大法学部出身の官僚群を守るべき知性の殿堂であるかのように語るとき、憲法学者は自分たちの著作を基本書とする人々が中枢を占める社会を守ろうとしているわけである。
・東大法学部系の憲法学者の特異な憲法論を信じる限り、違憲である。そうでなければ、違憲ではない。


憲法九条と日米安保によって成り立つ日本の国家体制


日本国憲法アメリカ人によって起草されたものだ。その結果、日本国憲法アメリカの伝統的な憲法思想の影響を強く受けている。在日駐留米軍は、日本国憲法よりも長い歴史を持っている。日本国憲法が主権回復した独立国家の憲法となったのは、サンフランシスコで日米安全保障条約が結ばれた日からである。これは善い悪いの法理の問題ではなく、事実の問題だ。
アメリカはポツダム宣言を受諾した日本を占領統治するにあたって、まず武装解除を進めた。憲法九条は、「大西洋憲章」によってすでに明らかにされていた旧「敵国」の「武装解除」を、恒常的な制度とする条項であった。
国連憲章が定める集団安全保障の仕組みだった。
・冷戦の勃発によって、国連安全保障理事会に依拠する集団安全保障は機能しなくなった。しかし国連憲章は、集団安全保障が機能しない場合の代替策として、51条の個別的・集団的自衛権を制度化する方法を導入していた。したがって日本人が、代替策としての集団的自衛権に依拠する国際安全保障制度を、日米安全保障条約という形で模索したのは、自然な成り行きだった。この認識は、1940年代〜50年代の外交当事者や国際法学者らによって共有されていた。そこで日米安保条約の前文に、集団的自衛権が明記されることになったのである。
・東大法学部系の憲法学者たちは、戦後一貫して、アメリカを参照しながら日本国憲法を語ることを禁止するために多大な努力を払ってきた。アメリカの影を無視し続けることが憲法の純粋性を守ることだと考えるのは、あるいは人間の自然な心情であるかもしれない。
・学術的な観点から言うと、東大法学部系の憲法学者たちは、アメリカ流の政治思想を基盤に持つ日本国憲法を、あえてドイツ国法学の概念で解釈し、フランス革命史への参照で、作り替えようとしてきた。このような錯綜した態度は、一見すると、謎である。


19世紀ドイツ国家法人説=基本権思想の残存


憲法学者たちがすでに証明済と主張する安保法制違憲論は、いくつかの前提によって成立している。その前提を信じるならば違憲論は正しいが、ところが実は前提を作り出しているのが憲法学者自身なので、いつまでたっても循環論法から抜け出ることがない
・周知のように、国連憲章はこうした発想法をとらないため、国際法では集団的自衛権は合法である。それでは憲法典のどこに憲法学者の主張の根拠があるのかというと、どこにもない。すべては憲法学者推論によって成立している論法だ。
・「自衛権」は国際法上の概念である。憲法が同じ概念を語る必要はない。ただ「自衛権」の憲法上の裏付けを、11条や13条の基本的人権や幸福追求権を確保するための政策をとる政府の権限に見出すだけで十分だ。
・社会契約論にもとづいた立憲主義を尊重するならば、社会構成員の安全の確保を図る政府の責務の規範意識こそが、国際法における自衛権を、国内法で裏付けることになる。社会構成員の安全確保のために、ある状況で米艦防護が必要であれば、それは必要であり、必要でなければ、必要ではない。自衛権行使の合法性は、国際法にのっとって、「必要性と均衡性」で審査すればよい。
・諸個人の権利を守るための安全保障政策をとる権限を政府に信託するのは、「立憲主義」の根幹的な思想だ。イギリス革命やアメリカ独立革命に多大な影響を与えたジョン・ロックを読み直すまでもない。
・(東大法学部系)憲法学者は、このような議論を否定する。立憲主義を「国民が政府を制限すること」だと定義するので、権限を政府に与えることを嫌うのである。そしてひたすら「立憲主義とは国民が政府を制限することだ」と唱え続ける。
「国民」が主権者なので、常に「国民」は政府を制限し続けなければならない憲法が政府を制限することは強調しても、憲法が国民を制限することはあえて言わないのは、国民主権論の装いをまとった国家法人説にとらわれすぎているからだろう。個人の「自然権」の不可侵性から社会構成原理を説明する(特に日本国憲法が影響を受けた英米諸国が歴史的に培ってきた)「立憲主義」を軽視し、19世紀型のドイツ・フランス流の絶対国民主権論の発想法に依拠し、日本国憲法の体系を確立しようとするのである。
ドイツ国家法人説にしたがった国家の基本権思想を採用するならば、集団的自衛権違憲だという議論の背景も明らかになってくる。憲法を守ることは、主権者である国民の主権の純粋性を守ることなのである。主権者たる国民が自分自身を守るのが真正な自衛権で、それ以外はまやかしの自衛権だ、という抽象的な理論は、主権の純粋性を至高の価値と考えて初めて理解できる。伝統的にドイツ国法学の擬人法的国家観に依拠した観念論が根強い東大法学部系の憲法学では、真正の自衛権の主体は国民としての国家であるので、国家もまた自分自身を守るのが純粋な主権の行使であり、それ以外はまやかしなのである。
・拙著では、ポツダム宣言によって「国民主権主義」の「八月革命」が起こったのだという宮沢俊義の神秘的な理論を起源とする憲法学は、大日本帝国憲法が制定された経緯から異常なまでのドイツ国法学の影響下にあった東大法学部憲法学講座の伝統を想起することによって、よりよく理解することができると論じた。天皇であれ国民であれ、純粋不可侵な主権者がいなければならない。そして主権者さえいれば、アメリカは無視できるのだった。
・問題なのは、このような態度は、必ずしも自明な絶対的な真理を保証する学説とは言えない点だ。本来は英米思想に依拠した内容を持っているはずの日本国憲法との整合性も、必ずしも自明ではない。


歴史の単純化


・多少なりとも歴史的検証をする者は、このような言い方はしない。国会等における政府関係者の答弁や学者の議論を総覧しても、集団的自衛権の行使それ自体が違憲だとされるようになったのは、1960年代末になってからであることは明らかである。
・日本人にとって、伝統的な自衛権をめぐる問題とは、満州事変の記憶であった。つまり(個別的)自衛権の拡大解釈こそが危険だとされていた。個別的自衛権集団的自衛権を切り分けて、個別であれば合憲かつ安全だが、集団であれば違憲かつ危険だ、といった議論は、全く戦後日本的なものではない。そんなことを主張したら、「満州事変は合法かつ安全であった、連合国による戦争は違法かつ危険であった」と言っていることに等しくなってしまう。
集団的自衛権違憲だという政府見解が定まったのは1972年のことである。今日から見るとだいぶ昔のことだが、終戦時から数えれば四半世紀の歳月を経てからのことである。
・高度経済成長の成功体験に浸っていた1960年代後半の日本人たちは、自民党の政治家も官僚たちも、同時代の環境を制度化して長続きさせることが国益にかなうことだと信じるようになっていた。そこで安全保障は米軍に依存する形を永続化させつつ、日本は最低限の安全保障政策しか行わないまま経済成長に邁進する仕組みを永続化させることを試みたのである。集団的自衛権違憲論は、そうした特殊な時代環境の産物であった。
・冷戦時代であれば、アメリカは、こうした日本の狡猾な態度を容認した。日本における共産主義勢力の台頭を恐れ、保守党政権の継続を強く望んでいたため、「これ以上の安全保障の負担に日本人は耐えられず共産主義政権が生まれてしまう」、という伝統的な自民党政治家の訴えをよく聞き入れたのである。
・もっとも田中角栄の失脚に象徴されるニクソンキッシンジャー時代の日本政府に対する不信感は、狡猾な日本外交の永続化の試みに対する不信感であったとも言えるだろう。田中政権発足直後の1972年政府見解は、対米関係の円滑維持の観点から見れば、最初から危険な賭けであった。
佐藤栄作政権が沖縄返還を目指すようになってから、集団的自衛権はことさら否定されるようになったことを政府国会答弁の記録から描き出した。
沖縄返還は不可能だと考えられていた。沖縄の基地を、日本がコントロールすることに、アメリカが同意するはずがない、と考えられていたからである。そこで佐藤政権は繰り返し沖縄返還後後も、アメリカは基地を(事実上)「自由使用」できるということをアメリカに伝えた。「自由使用」問題は、「核持ち込み」問題と並んで、沖縄返還交渉のカギであったが、いずれも日本側の二枚舌外交によって処理された。
日米安保条約には基地使用の「事前協議」制度が付帯しているが、「自由使用」の容認は、「事前協議」を通じて日本側がアメリカに基地使用の内容について云々することはないと約束することによって、達成された。この態度を法律的にも固めるのが、集団的自衛権違憲なので、行使したことはなく、今後も行使するはずはない(基地使用はアメリカが勝手に独自に自由にやっていて日本とは一切関係がない)、という立場であった。
・沖縄に対する攻撃に日本が対応するためには、集団的自衛権を発動することが不可避であった。1972年沖縄返還の時点において初めて「すべては個別的自衛権で対応できる」という主張が成り立つようになったのである
・長谷部恭男・元東大法学部教授は、2016年4月に刊行した著書『憲法の理性』の増補新装版に付した補章で、あらためて「一旦確定した解釈の結論は、十分な理由がない限りは、変更を許すべきではない」と唱え、「歴代の内閣法制局長官や元最高裁長官が『確立した』解釈、『規範としての骨肉化』した解釈の変更を強く批判」していることが、安保法制違憲論の屋台骨であると強調した。
・安保法制反対運動の急先鋒の一人であった元内閣法制局長官の阪田雅裕は、2016年7月に刊行した著書『憲法九条と安保法制』において、実際の安保法制の「極めて限定された集団的自衛権の行使容認」による変更は、「程度の問題」にすぎず、「例外的に許容される武力行使に含まれるという考え方が、少なくとも論理としては成り立つ」ことを認めている。
・阪田氏は、安保法制反対運動を主導して「元内閣法制局長官」の肩書を持って2014年5月の「国民安保法制懇」の設立メンバーにもなった人物である。しかし安倍首相が内閣法制局の人事慣行に反して長官に任命していた外務省出身・一橋大学卒の小松一郎がその14年5月に長官を退任し、人事慣行にそった横畠裕介が長官に昇格して、法制局も含めた政治折衝をへて7月1日の閣議決定が出された後、「国民安保法制懇」を退会した。
・阪田雅裕氏は結局、「『法制局の次長が局長にしてもらえて』、『ギリギリこれなら法制局としては結構です』という経緯を経て7・1閣議決定がなされてからは、『安倍総理集団的自衛権という形式だけとって、実はとらない気持ちだったらあまり追い込んではいけない』という立場になり、安保法制懇からも離れていったという」(拙著206頁)。


国際環境の変化


集団的自衛権の行使は安全保障政策としても愚劣である、といった主張を憲法学者が行っていることを目撃することもしばしばあった。的外れであろう
集団的自衛権違憲論は、冷戦体制を前提にした「軽武装・経済成長」路線が日本の外交指針となったときに初めて生まれたものであった。その前提は冷戦体制特有のものであった。つまり非対称同盟の相手方であるアメリカは、そのような狡猾な日本の態度に何も不満を示さない、という前提である。
アメリカが日本における共産主義政権の台頭を防ぐことに大きな国益を見出している限りにおいてのみ、あてはまる前提であった。冷戦終焉とともにこの前提が消滅したことは、周知のとおりである。
・今回の安保法制は、むしろ微調整策であった。オオカミ少年のように安保法制によって全てが転覆されるかのように誇張するのは、無責任な扇動主義である。善いことであるか悪いことであるかは別にして、安保法制は日本の伝統的な国家体制を維持する方向で機能するだろう。

(部分抜粋転載終)