ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

歴史は変わる

http://thutmose.blog.jp/archives/65086483.html


2016年8月18日
「韓国・中国の金メダル激減の理由 ビデオ判定で八百長困難に」


・中国は出場禁止こそ受けなかったが、80年代から90年代にかけて「無敵の馬軍団」と呼ばれた陸上などで、組織ドーピングの内部告発があった。
・2012年ロンドン五輪は韓国がらみの不自然な判定が特に多く、サッカー、柔道、フェンシングなどほぼ全ての競技で「韓国がらみのおかしな事件」がおきていました。
不正撲滅でメダルを減らしたのはロシア、中国、韓国でしたが、メダルを増やしたのはイギリス、日本でした。
ドイツは「ドーピング超大国東ドイツと合併した1992年大会では82個もメダルを取っていて、大半がドーピングによる成果だと思われます。

(部分抜粋終)

http://ironna.jp/article/1282


昭和天皇独白録』を再読する
月刊正論
(正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録)
※肩書、年齢等は当時のまま
国際社会に「誠」を求め続けた御心
中西輝政京都大学教授)


「歴史」の記述が初めて可能になる時代


・ひとつの出来事を本当の意味での「歴史」として把握するためには、六十年(五十年―七十年という幅で考えてもよい)という期間が必要だということだ。これは歴史研究の要諦でもあるが、戦争や革命といった大きな政治的、歴史的変動を経験した当の世代には、回想録は書けても客観的な歴史は書けない


・個々の事実の選択とその積み重なり、さらにその出来事の背景や影響までが、あくまで「別の時代の出来事」として記述されて初めて本当の「歴史」となるのである。


「あのような悲惨な体験は二度と繰り返してはならない」というメッセージが如実に伝わってくるような「現代史」は、歴史ではない。それがどれだけ尊い平和への思いであっても主観に過ぎないからである。


・われわれ日本人は特に先の大戦に関しては、この、歴史は誰が書いたのかという点をきちんと検証しないまま議論してきた。そもそも戦争終結直後に出来上がった歴史観が正確であろうはずがない。それはいくら良く言っても「新日本をつくる」ための歴史観だったのである。つまり団塊の世代前後の日本人は、終戦から間もない頃に学校で習った歴史観が正しいと現在も信じているが、彼らが学んだものはまったくのところ歴史とは呼べないものであった。


先の大戦は、第一次世界大戦ロシア革命によって生まれた共産主義自由主義という世界史の流れが作り出した大きな構図の中で起きた事件であった。ところが、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わるまで(さらに言えば今後、中国の共産主義体制が終焉を迎えるまで)、そのような見方に基づいて第二次大戦を議論することが本当のところ不可能であった。どのような歴史観論争も、結局は共産主義自由主義反共主義という同時代の決定的な思想的対立構造の中で行わざるをえなかったからである。


・あの大戦に関して、戦勝国の側でこれまで極めて厳重に秘匿されてきた資料が、六十年ぶりに初めて公開されつつあることである。世界情勢の変化、政治家の世代交代、あるいはロシアのように体制が変わり、情報を秘匿する必要がなくなったことにより、新資料が次々と今、ラッシュのように公開され始めた(中国における北京政権の崩壊は一層重要な史実を明らかにすることであろう)。


・この数年アメリカで公開された「Venona(ヴェノナ)文書」と呼ばれる新史料から、ルーズベルト政権では大量のソ連工作員が要職に就き、対日政策に決定的影響を与えたことが明らかになりつつあるし、ロシアでの公開史料からは、張鼓峰事件(一九三八年)やノモンハン事件(一九三九年)ではソ連側にむしろ責任があったことが、この一、二年で明らかになりつつある。これで少なくとも東京裁判」の訴因のいくつかは明確に崩れることになる


・日本という国のアイデンティティ、そして皇室という存在のありようが表面上大きく変化した時代しか知らない世代が、逆に誤って“新しい視点”の陥穽に落ち込む危険を避けることにもつながる。


・冷戦後崩壊した社会主義イデオロギーの代替イデオロギーとしての戦争糾弾史観と合流する傾向すら見られるからである。


・『独白録』は、昭和二十一年三月から四月にかけ、松平慶民宮内大臣ら側近五人が、一九二八年(昭和三年)の張作霖爆死事件から終戦にいたるまでの経緯を四日間五回にわたって昭和天皇から直接聞いてまとめたもので、五人のうちの一人、寺崎英成御用掛が遺した文書類を調べた遺族らの手によって世に出ている(初出は『文藝春秋』一九九〇年十二月号)。


・国民の君主に対する大きな尊敬と信頼に応えるという意味で、政治が一定の範囲から道を踏み外したりしないよう、憲法の枠内において配慮する責任を君主が負うことを認め、かつ求めるのが立憲君主制であって、現代の象徴天皇制も基本精神においては同じである。でなければ、およそいかなる君主制も成立し得ないからである。憲法上、日本と比べはるかに大きな政治的機能を君主に与えているデンマークやタイの王制も基本においては同様である。


天皇の「戦争責任」を主張する左翼勢力の典型的な議論も、「終戦天皇が裁断を下した。天皇のいわば鶴の一声で、戦争は終わった。ならば開戦時も始めさせないという形で、独裁権を発揮できたはずだ」というものであるが、これも戦前の国家体制について余りに歪んだ理解をしていると言わざるを得ない。


・いわゆる終戦の「聖断」は、八月九日深夜から十日未明にかけての御前会議で下された。


・開戦時は、天皇のご裁断を仰ぐという内閣の決定はなかった。対米開戦を辞さぬとした「帝国国策遂行要領」を決定した昭和十六年九月六日の御前会議では、あらゆる証拠から見て対米開戦反対の避戦論者であった昭和天皇にとって、明治天皇の「四方(よも)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」との御製を二度にわたって読み上げるのが精一杯の「抵抗」であった。さらに事実上開戦を決定した同年十一月五日、最終決定をした十二月一日のいずれの御前会議でも、「開戦」が内閣の決定事項として諮られたのであり、天皇がそれを拒否されたら、憲法を無視した「上からのクーデター」となり、明治天皇以来の日本の国家体制の根底を揺るがすような事態になっていたのである。


・第一は、平和への強い思いである。昭和天皇は戦前も戦後も一貫して平和主義者であられた。この事は、昭和天皇が日米開戦をなんとか避けようとされていたことなどが種々の資料から明らかになっており、もはや改めてここで詳しく触れる要もないであろう。またこれは昭和天皇だけのことではなく、先に紹介した御製を詠まれた明治天皇、さらに遡って日本の天皇家、皇室の根本精神が平和と民草(国民)の安寧にあることは言うまでもない。この日本皇室の顕著な平和志向の伝統が、帝国主義の跋扈した近代を通じ明確に継承されていたことは特筆すべきところであろう。


・第二は、日本の伝統、今風の言葉でいえば「アイデンティティ」を体現され、特に天皇という地位と神話、神との絆を戦後も一貫して持ち続けておられたことである。このことと皇室の平和主義の伝統とは無関係ではない。またその「神につながる系譜」の体現者ということの一方で、現実の世界には、あくまで合理主義的で、プラグマチックな対応に徹しておられたことも昭和天皇の国際関係観を見る上で特筆すべきところである。「神の裔(すえ)」というアイデンティティと堅固な合理主義が互いに支え合うものとして昭和天皇の精神構造の特質としてあったのであり、それはまた皇室の伝統精神でもあった。この一見相反する二つの精神の在りようの共存こそ、実は日本人が現実の世界を相手にするとき、つねに心し、大切にしなければならないものなのである。日本人が伝統的精神を忘れ、西洋の物質論的合理主義―それがキリスト教道徳に支えられていることを知らずに―と、その対極を揺れ動いている近現代の日本社会の問題の所在は容易に理解できよう。


昭和天皇は、昭和二十一年の年頭にあたって出された詔書で、この二つの精神の大切さを説かれた。この詔書はGHQの意向によって“現御神(あきつみかみ)”“現人神”を否定された「人間宣言」として知られているが、実は書かれていない大きなポイントがある。GHQが当初内閣を通じて示した宣言案には、神格否定だけではなく、「皇室が神の子孫(裔(すえ))であることをも否定せよ」と指示されていたのである。しかし、昭和天皇は、この点は断固として拒否された。つまり昭和天皇は、天照大神、あるいは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の神、いわゆる天(あま)つ神と国造りの神々からの系譜を継ぐ立場であられるという神話的・歴史的、精神的アイデンティティについてはGHQに一歩も譲らない姿勢を示されたのである。


終戦後初めて新しい年を迎えるにあたり、昭和天皇は、『五箇条の御誓文』に依拠して民主主義の重要性を改めて説き(「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」)、同時に国際関係においては合理主義と日本の存立の根幹である伝統との絆を大切にして世界とともに進んでいくよう(「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」)国民に呼びかけられたのである。


・第三は、昭和天皇が国際社会における信義、世界の中での「日本の誠」というものをどれだけ重んじておられたかということである。国際関係においては、一旦他国と結んだ条約は守り抜く、という強い信念を一貫して持たれていたことは、『独白録』だけでなく他の多くの史料からも明らかである。


・《松岡はソ聯との中立条約を破る事に付て私の処に云つて来た、之は明かに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云つたが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣々僚刷新を名として総辞職した。/松岡の主張は、イルクーツク迄兵を進めよー(ママ)と云ふのであるから若し松岡の云ふ通りにしたら大変な事になつたと思ふ。彼の言を用ゐなかつたは手柄であつた》(『独白録』68頁)


昭和天皇は、松岡が日本外交の基本精神を踏み外している点を特にお怒りになったわけである。一旦結んだ条約は是非とも守らなければならない。日本の法治主義という伝統は、「言葉に出した約束はいかなることがあっても守る」という日本精神のアイデンティティ感覚によって支えられ、これを踏みにじるようなことがあってはならない。そしてそれは、たとえ弱肉強食の国際情勢にあっても貫かれねばならない。こうした思想が、昭和天皇の国際関係観の中核にあった。


・昭和十五年九月に日本が三国同盟を結んださい、昭和天皇がドイツ、イタリアと同盟関係を結ぶことに強い懸念を示されたことからも読み取れる。
独伊のごとき(ヽヽヽ)国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(傍点筆者)とおっしゃったうえ、「日英同盟の時は宮中では何も取行はれなかつた様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只(ただ)慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によつては重大な局面に直面するであろう」と述べて、賢所への参拝と祖宗への報告をご希望になった(『昭和天皇語録』講談社学術文庫)。


・戦前の日本は、実は他国と同盟関係や条約を結ぶときには、相手国の条約や同盟関係に対する態度、過去にどれだけ誠実に国家間の約束を守ってきたのか、あるいは破ってきたのかという歴史の記録を詳しく調べていたのである。


・明治時代の日英同盟では、この調査によってイギリスは同盟の相手国として信頼できるということが分かり、同盟締結に向けて日本の国全体が動いた。ところが、ドイツは、ロシアに次いで最も頻繁に同盟や条約を破ってきた国だったのである。昭和天皇ドイツが条約破りの常習国家だということをご存じだったのであろう。


・国際政治史の研究を重ねるうちに、昭和天皇が、日本的価値観である「誠」というものに基づいた外交を通さねば国の基軸が立たなくなるとお考えになった、あの大きな判断によって、敗戦やその甚大な被害をも超えた、数百年という単位でわれわれが誇りとすべき日本史の記録というものが残されたのだと考えるようになった。


・当面の戦略的必要から条約を破る、あるいは同盟関係を踏みにじるということをすれば、目先の利益は確保できるかもしれない。しかしそうして一旦国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益を被るか


・現代の日本は、その点では欧米をはじめ東南アジアの国々やインド、さらには中東に至るまで、中国や韓国などが決して得ていないような信頼、「約束は守る国だ」という深い信頼を得ている。このことは、たとえ日本のメディアが報じなくとも、現代の日本人はよく知っておくべきであろう。


・明治五年の新橋―横浜間の鉄道敷設の資金とした外国からの借款をはじめ、近代化のために外国から借りた資金を、あの弱肉強食の時代に全て完済したという歴史も、国際社会の記憶となっているのである。


・日本が語るべきものは、軍事力でも経済力でもない。まさに、「信義」というものが日本外交の最大の財産である、と昭和天皇は、われわれに示されているのである。しかもこれは百年、千年という単位で国家の行き方を考える視点に基づくものであり、神代に繋がる連綿たる歴史観の中で日本という国の安泰を祈り続けてきた皇室という存在なしには考えられないことに思いを致し、その昭和天皇の御心、つまり倫理観をわれわれは受け継がなければならないのではないか。


アングロサクソンは計算高く油断も隙もない民族ではあるが、ロシアやドイツと比べれば遙かに信頼度は高く、条約を遥かによく守ってきた。中国や北朝鮮というもう一つのタイプの大陸国家と比べてもアングロサクソン勢力は遙かに信頼性が高いことはもはや明白、と言えるかもしれない。かつての「ドイツやイタリアのごとき国家」は日本の周囲にもあるということである。


昭和天皇のお考えは、この報告書は受け容れられる内容ではないかというものだった。「リットン報告書」、つまり国際連盟満州事変が日本の侵略だと断定はしたけれども、日本の満州における権益は認めるという立場であり、その現状について日中間で新しい条約を結ぶよう勧告していた。


満州事変は、日露戦争以来日本人がかの地に苦心して築いてきた合法的な権益を、中国共産党が中心となって排日、侮日運動によって日本人を追い出して力で日本の権益を根底から覆そうとしたのに対し、政府、幣原外交が無策であったために、関東軍が自衛のために立ち上がって起きた。その言い分は正しかったのだが、謀略的手法によって柳条湖で鉄道を爆破し、一挙に全満州を軍事制圧するというやり方が余りにお粗末であったのである。


・当時日本国内にもコミンテルンの指令を受けている共産主義者が大勢いたわけであるから、彼らの国家転覆活動が活発化する可能性も合わせて考えるべきであった。実際、ソ連の指令を受けた尾崎秀実やゾルらは、この満州事変の直後から動き始めて日本を日米戦争の奈落に誘い込んでいったのである。


満州事変は戦略的には誤った行動ではあったが、本来正当な日本の権益は守られなければならないという点では決して間違ってはいなかったのである。従って、「リットン報告書」を受け容れれば、日本の主張の正当性を国際社会が認めることになるのだとお考えになった点でも、昭和天皇大きなプラグマティズムに基づく国際政治観、大義国益とをバランスよく見据えていくという戦略眼がうかがえるのである。


天皇のお言葉を取りあげて、いまだに生き残っている左派歴史家たちの中には、「昭和天皇満州事変を是認していた」「侵略肯定論者だ」と捻じ曲げて解釈する向きがある。『独白録』は専ら東京裁判昭和天皇の戦争責任が追及されたときの弁明資料として作成されたものだとして、天皇の戦争責任を追及する藤原彰・女子栄養大教授、粟屋憲太郎・立教大教授、吉田裕・一橋大助教授、山田朗・東京都立大助手の共著『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店、共著者肩書きは平成三年の初版発行時)にも、同様の批判が記述されている。


・藤原や粟屋らの批判は、どんな地域でも、いかなる場合でも武力を用いてはならないという戦後の「日本国憲法第九条に根ざした空想的平和主義から一歩も出ない立場を前提としたものである。歴史を論じながら、当時の国際状況をまったく無視しており、国際関係が「彼我の関係」という相対性を本質とすることを敢えて否定する一方的な批判である。


・左派史観は、これを「天皇の好戦性」を示すものとしてしきりに批判の対象とするのだが、もしかしたら、戦後の平和教育の中で育った日本人の中にも同様の見方をする者が一部に現れてくるかもしれない。


・日本は、上海で、三万人以上の日本人が住む「日本租界」という日本の法律が通用する地域を持つことが国際法上の権利として認められていた。ところが、それを守る兵力として前述の通り二千人強の海軍陸戦隊しかいない日本租界を蒋介石軍が十二万もの圧倒的兵力で攻撃しようとしたのであり、上海事変は完全な日本の防衛戦争、あるいは自衛戦争だったのである。


昭和天皇満州事変には明確に反対しておられた。満州の権益を守ることは正しいが、そのやり方が国際秩序に反していて日本を危険に陥れていたからである。他方、支那事変に対しては反対されていない。むしろ第一次上海事変のように、上海での日本人の生命・財産と日本の威信を守るために積極的な軍事行動に出て、ある程度の成果を収めたら追撃せず即座に和平するというお考えであった。実際、あのとき平和を確保するにはその方法しかなく、その後の支那事変がたどった悲劇は間違いなく避けられたと思われる。


昭和天皇の平和観と戦略感覚もまた、非常に大切な事をわれわれに教えている。国際秩序に決して挑戦してはならない。このことは天皇が繰り返し様々な場面で強調しておられた。他方、自らの利益を守り、自衛の権利を発動するときには、正々堂々、明確なかたちで国際法にのっとり断固とした態度を示すこと。それが憲法九条的な戦後平和主義ではない、もっとも正しい意味での普遍的平和主義だということである。


・冷戦終結後、混迷の度を増す国際社会の中で、日本は自立した国家への手探りを始め、「このままでは国家としては立ち行かない」という意識も国民にようやく浸透してきた。


・日本の国体というものは、お互いを思いやる「仁」と「誠」の精神を重んじ、日本の国と国民の安泰を祈り続けてきた皇室が厳然としてあり、国民がそれを尊崇し、そして自己の意志だけでは乗り越えられない存在の前に謙虚になって常に自己抑制を忘れず、そして国際社会の潮流、つまり「世界の進運」(終戦詔勅)に遅れることなく、常に国際社会と軌を一にして発展していくところにある。そのベースとなるのは、二千年の歴史に根ざす伝統への絆から生じる、ゆったりとした大きな誇りであり、これが堅実な合理主義と強靭なプラグマティズムを支え、他国と真に平和的に共存できる「柔らかき心」を生み出してくれるのである。


・「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と記者が正面切って聞いたのに対して、昭和天皇は「そういう言葉の綾(あや)については、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」とお答えになった。私はこのお言葉に昭和天皇の万感の思いが込められていたと強く感じる。本来の文脈を虚心にたどれば、そこには歴史観、あるいは歴史と国際関係の大きな基軸を踏まえ、立憲君主としての立場、また国家はいかにあるべきかという哲学がうかがい知れる。

(部分抜粋引用終)

中西輝政氏の言説引用に関する過去ブログはこちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141108)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150809)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160111)。