ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

埋もれた過去を学ぶ

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34075803.html


2016年3月21日


終戦時、シンガポール無人島で東南アジア最大の収容施設であるレンパン島に日本兵8万人が収容されました。
・レンバン島と言えば第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人が連行されて、全員マラリアで死んだ島であり、蛇以外の生き物は少なく「死の島」と呼ばれていました。イギリス人はこの「死の島」で日本兵を地獄に追いやろうとしたのです。
・この島の施設はすべて日本軍の手で建設させました。日本軍はあり合わせの道具で桟橋、道路、倉庫はじめ、何から何までつくらされました。問題は食糧でした。この時、イギリス軍が約束していた食糧は何も届きませんでした。
・ここから日本兵の過酷な生活が始まります。生きるためにあらゆる動植物、蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源で、毒以外の野草は取り尽くした
・軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず「餓死寸前に至った」と書いています。
・8万人に餓えが迫った12月8日、イギリス軍は食糧5000トンを届けてきました。
・白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り拓き、飢餓に迫られながらも、あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、病院まで建設した日本人。驚くことに塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
・これは日本兵天皇陛下の軍隊、「皇軍」であるという誇りがあったからです。
目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心のまことなりけり
明治天皇は「神様に恥じない心こそ日本人の誠である」と詠まれ、日本人はこの御製を実践する。これが我が国柄であり、國體の精華であるのです。

(部分抜粋引用終)

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34079671.html


2016年3月23日


スリランカの歴史ほど悲しいものはない。1505年にポルトガルに植民地支配され、その後もオランダ、イギリスと、500年にも亘って白人に搾取されてきました。
大正10年、スリランカはイギリスの植民地で、人々は牛馬のごとく扱われていた頃、昭和天皇(当時皇太子)がヨーロッパに御巡遊されるため、お召し艦「香取」、供奉艦「鹿島」の2隻で編成された第三艦隊がスリランカ(当時はセイロン)の首都コロンボに入港されました。
この時、ある少年が母親に丘の上に連れて来られて、こう言われました。
「見よ、あれが大国ロシアを破った日本海軍の艦隊よ。日本人も私達と同じアジア人。アジア人もやれば出来るということを日本人が見せてくれたのよ」。
この時、丘の上には多くのスリランカ人が集まって来て、遠い眼差しで日本海軍の艦隊を見ていました。
以来、この少年は猛然と勉強して、やがてスリランカ独立運動に加わり、そして大統領になったのです。この少年の名はジャヤワルダナと言います。
ジャヤワルダナ。この名前を知っている日本人は少ない。教えないからです。
戦後、日本が主権回復するためのサンフランシスコ講和会議に、スリランカの大蔵大臣として出席したジャヤワルダナは、会議の冒頭で「日本に対する賠償権を放棄する」と宣言し、このように発言しました。
「アジアの諸国民は、なぜ日本が独立することを望んでいるのか。それはアジア諸国と日本の永い結びつきであり、白人の植民地として屈辱的地位であったアジア諸国民が日本に対して抱いている深い尊敬である
アジア諸国民の中で日本が、唯一自力で独立国として、強く、自由であった時、アジア諸民族は日本のようにやればできると仰ぎ見た。
ビルマ、インド、インドネシアの指導者達の中には祖国が解放されることを願って、日本に協力した者がいたではないか
これこそ白人から植民地支配を受けていたアジアの人々を代弁した発言でした。それはただ一人、白人達に戦いを挑んだ日本に対する尊敬の念を持つ演説でした。
ジャヤワルダナの演説に万雷の拍手が起こり、この演説が講和会議の流れを変えて、日本の国際社会復帰を大きく後押ししたのです。この発言に吉田茂全権も感泣したのです。 
その後、日本はスリランカにとって最大の資金援助国となります。そのことをスリランカの人達はよく知っていて、日本人に対してとても感謝しているのです。

昭和天皇大喪の礼の時にはジャヤワルダナは強く希望して、時の大統領に代わって参列されました。きっと少年の頃に丘の上で母から言われたあの言葉を思い出していたのではないか。
1996年、ジャヤワルダナが亡くなる時、遺言として「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」と、日本人に角膜を寄贈されました。遺言通り左目は長野県の女性に移植されたという。彼は心の底から日本と日本人を愛していたのでしょう。

(無断転載終)

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34081529.html


2016年3月24日


大東亜戦争後、昭和天皇は約8年かけて、日本国中を巡幸されました。実は、これは世界中が驚いたのです。
世界の常識では、敗戦国の君主は国外逃亡するのが当然だと考えていました。敗戦国となれば治安が悪化し、君主に対する警備もなくなり、やがて国民は暴動を起こして君主を殺害するのが当たり前であったからです。
・君主は常に国民の犠牲を顧みずに豪華な生活をするものであったから、同じように日本の天皇陛下も、国民から銃で撃たれて殺害されるものだと思っていた。
陛下の巡幸はどこに行っても大群衆に囲まれ、大歓迎され、時に日本国民は涙を流して「天皇陛下万歳、万歳、万歳」とやるのです
・特に広島への陛下の巡幸は広島の人々にとって大きな支えとなりました。それは原爆が落とされた広島には誰も寄りつかなかったからです。
・しかし、昭和22年12月7日、そういう風評の中で、昭和天皇は広島に巡幸されたのです。この時、広島県民は涙を流して陛下をお迎えしました。
広島が苦しんでいるときには広島に、そして、福島が苦しんでいるときには福島へ。天皇陛下は常に国民とともにある
・時代が変わっても、決して変わらないもの。これが日本という国、国柄なのです。

(部分抜粋引用終)

シオンとの架け橋(http://www.zion-jpn.or.jp


2016年3月21日
*トルコのアンカライスタンブールで続けてテロ事件が起こっているため、政府はイスラエル人にトルコ旅行をやめるよう勧告。(H)


2016年3月22日
イエメンから19人のユダヤ人が秘密裏に帰還。現地に残る約50人のユダヤ人は帰国する意思が無く、帰国事業を進めるユダヤ機関は、これでイエメンからの帰還移民は終了したと宣言。(H,P,Y)
ドバイの警察長官が、パレスチナ国家を否定する発言ユダヤ人の方が国の運営能力が高いので、二民族一国家としてユダヤ人に指導させればよいとの考え。数十年でアラブ人が多数派になると語った。(P)

(部分抜粋引用終)