ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

四ヶ月前には...

以下、二ヶ月以上前、ワード文書に入力しておいた拙文を。以前のブログ内容と重複する。

毎日、新たな中東ニュース分析が飛び込んでくる度に、目を通すだけでも大変で、その内容消化も頭がパンパンといった状態。心理的には重苦しさが溜まるばかり。それが、時間の経過とはありがたいもので、今ならば落ち着いてすっと入ってくる。
パイプス先生以外、初対面の35名(+1名の旅行責任者)の英語圏の方々と一緒に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150513)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150810)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150821)、テル・アヴィヴ、ベエル・シェバ、エイラートエルサレムと砂漠と都市の間をバスで移動。前半は朝晩、十数名の講師の専門的なレクチャーを聞き、質疑応答も活発。エルサレムマサダ以外は、初めての場所ばかり。事実発見の旅という名目なので、途中で砂漠観光もどきはあっても、それとて灼熱の中を歩き回るわけで、無意識の体力消耗は相当であったか、と。食事は朝晩がビュッフェ、昼食はフードコートやファーストフード店やキブツのレストランなどとはいえ、水も変わるわけで、とにかく体調を崩さずに、集団行動でご迷惑をかけないようにすることに専念。
疲れて不慣れな社交会話の中で下手なことを口走ることのないよう、常にメモ帳片手に必死だったので、参加者35名のお名前とメールアドレスとお顔がようやく一致するようになったのも、実は、ここ数日のこと。そして、その35名のみならず、十数名の講師の方々のご経歴を、帰国後、少しずつウェブ上で知ることとなり、改めて凄いメンバーと行動を共にさせていただいたのだと、我ながら自分の度胸に仰天。さすがはパイプス人脈、桁というのかスケールが違う。場所がイスラエルだったということで旅行の間は皆さんに何かと親切にしていただいたものの、これがアメリカやオーストラリアやカナダのフォーマルな場所だったら、到底相手にはしてもらえなかったのではないか。
…というようなことを、パイプス先生にメールで書き送ると、非西洋圏だから敷居を低く設定してくださっているのか、余程、戦時中を除く日本に好意的なのか、私のそのような融通の利かないぐずついた態度をも、褒めてくださるのだった。「その徹底した態度、献身性を、いつも僕は賞賛している」と。
褒めて育てよ、というユダヤの教えでもあるのだろうか。または、自分が依頼した訳業なので、遠慮もあるのだろうか。旅の間は、特におじさま方から、「どこで知り合ったんだ?」などとさり気なく厳しいチェックが入るので、パイプス先生も意識して、ぎこちなく距離を置いていたことは、こちらにもよく伝わってきた。だが、個人メールでは、全く違って、以前と同じように友好的。「都合がよくなったら、また訳文を送ってきなさい。でも、その間も何をしているか、是非、連絡をしてね」といった調子。
パイプス先生は、アメリカでは立場があるので、それなりに振る舞いも大変なのだが、私に関しては、国も文化も違うので、かえって安心なのかもしれない。ベドウィンについても、「このトピックで少し会話を続けよう」ともおっしゃった。
それに、旅メンバー共有の選別写真リストとは別に、パイプス先生が写っている自然体の写真やお友達だったお仲間学者バリー・ルビン先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140205)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Barry+Rubin%22)のお墓参りの写真およびトランジットで滞在したイスタンブールの様子の写真も添えると、とても喜ばれた。喜んだついでに、何と私と「友達共有」カテゴリーがうれしかったのか、いつの間にか、私の写真フォルダーの名前が変更されていた。つまり、正式に「ダニエル・パイプス博士用」と呼称したところが、自分の名前を短縮形に直した上で、「ユーリによるダンル」と添えていたのだった。
思わず笑わされた。やっぱり、還暦過ぎても、「かわいいおじさま学者パイピシュ先生」ですよ。
と、思ったら、今し方メール着信。自分用に変更したところが、そちらにまで変更されたなんて、知らなかったというお詫び。つまるところ、中高年中心の旅団の中で、自分の撮った写真開示について、IT通よろしく、颯爽とグーグルドライブにしてみたところが、実は操作の内実をご存じなかったみたい。
抜け目なくしたたかな一方で、ほんとに、お茶目で脇の甘いパイピシュ先生でした。(2015年6月20日記)

上記の故バリー・ルビン先生のお墓参りの件で、興味深い経験をさせていただいた。墓地の場所は、エルサレムのレヴィ君(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150810)に予め教えてもらっていたのだが、具体的なお墓石が不明だった。
旅程の三日前に、時差調整のために一人で宿泊したテル・アヴィヴの中流ホテルで、雑談がてら、ユダヤ教のお墓参りの際の服装には、どのようなマナーやルールがあるかを尋ねてみた。すると、「ここは自由の国なんですよ」と堂々と胸を張り、「だから、こちらから何かせよ、と押しつけるわけにはいかないんです」と。私の英語表現がまずかったのかもしれないが、「えぇ、わかっております。でも、どのような色だとか、デザインはどうか、という基本的な基準は何でしょうか」と再度尋ねてみた。
すると、「人によっていろいろです。スカートでなければならない、とはこちらは言えないけれど、それがいいと思えば、そうしてください。色については、今のままで充分でしょう」「花を飾るということは、自分はしないけれど、亡父の場合は蝋燭を置きました。ある人は小石を置きます」とのこと。
小石については、映画『シンドラーのリスト』で光景を見たことを思い出した。墓石の周囲を皆でグルグルと歩いて回りながら、一つずつ小石を置くのだった。
問題は、墓地へはタクシーで辿り着けるとしても、墓石がどこにあるかだった。そのことについても、最初はためらっていた様子だった受付のユダヤ系のお兄さんと雑談を続けていくうちに「バリー・ルビン先生は、ネタニヤフ首相から奥様宛にお悔やみ状が届いたので、多分、イスラエルでは有名な学者ではないでしょうか」と尋ねると、途端ににっこり微笑んで、パソコンのキーを入力し始めたのである。しばらくカシャカシャとキーボードの音がしたかと思うと、紙切れにさらさらとヘブライ文字を書いてくれた。
「バリー・ルビンという名のアルファベットをここに綴り、ヘブライ語をここに記しておく。墓石の番号は、これとこれ。それもヘブライ語で書いておく。墓地では、ラビが英語がわからないかもしれないので、この紙を見せなさい。そうすれば、墓石の場所を教えてもらえますよ」。
「ありがとうございます」とお礼を述べながらも、突然の問い合わせだった割には、あまりにもスムーズに親切に進んだのがうれしかった。
「テル・アヴィヴでは最も良い立地のところ」とレヴィ君に教わっていたので、楽しみにタクシーをつかまえ、乗り込んだ。すると、そのタクシーの運転手さんも実に親切で、「テル・アヴィヴは初めてなのか?日本から来て、一人でお墓参りなのか?」と尋ねながらも、いろいろと心配している様子だった。ホテルで書いていただいた紙を見せると、「知り合いだったのか?」「いえ、ご著書を何冊か持っております(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20140204)。しばらく、フェイスブックでご様子を伺っておりました」「いつ亡くなったのか?」「昨年の2月4日です」。
本当に私は運がよかった。とてもいい運転手さんで、お墓参りのために日本から来たのか、と感心した様子ながらも、「あんたのことが心配なんだ」と、あれこれ細かく方角を確認しながら、現地に無事到着。門の前でタクシーを降りて待ってもらい、中へ入っていくと、大勢の人々がそれぞれに歩いていた。事務室のような所で、ラビに紙を見せて英語で尋ねると、「それは、ここではない」。続けて質問しようとすると「英語は話せません」とのことで、門の所まで歩いて行かれたので、そのまま私も後に続いた。結局、待っていたタクシーの運転手さんがヘブライ語の通訳をかって出てくれることになった。
どうやら、もう少し先のようだ。お礼を述べて再度、タクシーに乗り込む。本当にいい運転手さんで助かった。数分先のところに、もう一つの墓地があり、そこはほとんど人がいなかった。また、ラビもいなかったのである。
となると、ヘブライ語を書いた紙切れを持っていても、場所が皆目わからない。どうしたものか、と思いつつも、中へ二分ほど歩いて行くと、向こうから家族グループが歩いてきた。一人の女性に英語で「この墓石を探しているのですが、どの方向でしょうか」と尋ねてみると、お父さんらしき男性が、「あなた、日本人でしょう?私は先週、日本から帰って来たばかりなんですよ。だから、すぐわかります」と、両手を合わせて拝むジェスチャーを。心強く思い、ヘブライ語の紙を見せると、「あ、すぐそこです。ここを真っ直ぐ行って、五つ目の角を右に折れて行けば、わかりますよ」と。運良く小型車が通りかかったので、「乗せてもらっては?」と。ご親切はありがたかったが、自分で歩くことに。
でも、ほんの数分で、ルビン先生の新しいお墓に簡単に辿り着くことができたのである。赤いバラが一本斜めに置いてあり、蝋燭ではなく、小石が幾つかあった。
「献身的な夫であり父であり、シオニスト(1950−2014)」と彫り込んであった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20150805)。何本かのパイプス訳文でお名前を日本語にさせていただいたこともあり(http://www.danielpipes.org/12003/)(http://www.danielpipes.org/13089/)(http://www.danielpipes.org/14067/)(http://www.danielpipes.org/14068/)(http://www.danielpipes.org/14866/)、フェイスブックも拝見していたことが、ついこの前のように感じられた。それが今、日本の私が、実にルビン先生と向かい合ったのである。この不可思議さとご縁を、あれから四ヶ月以上も経った今、つくづくと思い起こすところである。
地理的距離としては東西に遙か離れたテル・アヴィヴと日本だが、初めての地なのに、一人で無事にここまで迷わず真っ直ぐに来られたこと自体、奇跡のようである。今振り返ると、本当に我ながら驚くが、外国という気が全くしなかったのである。何かに導かれて自然と、というのが率直な感触である。
ルビン先生には、小石を一つ、置かせていただいた。