ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

加瀬英明氏による江戸時代の話

4月下旬から5月上旬にかけての中東の旅については(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)、まだ序の口で、今後も書くことがたくさん残っているが、中間休みとして、別の話題を加瀬英明氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090411)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140513)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140627)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141025)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150406)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150415)のコラム抜粋から。
加瀬氏も長年ラビと親しく、一般向けのいわゆるユダヤ物の本を何冊か書いていらっしゃる。自宅に私が持っているご著書は、読んでいて元気が出てくるというのか、非常に前向きで積極的な内容なので、思わず書店で入手したり、アマゾンの中古で買い求めたり、主人が買って譲ってくれたりしたものである。
それにしても、パイピシュ先生の勤勉なお仕事振りには脱帽。私にとっては、非常に集中したお勉強の旅であっても、パイピシュ先生にとっては、多分、息抜きだったんでしょうねぇ。でも、日本は日本なりのよさと利点がある。

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「身近に感じる江戸時代」
2015/05/18 (Mon)


・しばらく前に、江戸開府400年が祝われた。日光東照宮が記念事業として、江戸研究学会をたちあげた。


・いまでも、路地に入ると家の前に花や、植木の鉢が置かれている。わが家も御多分に洩れず、植木を並べている。日本の原風景の1つだ。


・日本では芥(ごみ)を外で捨てずに持ち帰ったし、物を大切に使ったから、芥がほとんどなかった。


・幕末に日本を訪れた西洋人は、貧寒な村を通っても、人々が笑みを絶やさず、親切、丁重で純朴なことに、申し合わせたように感嘆している。道も家のなかも清潔で、身なりがこざっぱりしているのに目を見張った。


長崎海軍伝習所の教官だった、オランダ士官のカッテンディーケは「支那の不潔さと較べて、日本はどれほどよいか、聖なる国だ」と、書いている。フランス人のボーボワル伯爵も、「不潔、むかつくような悪臭が漂っている、きわまりなく下品な支那を離れて、日本は深い喜びだ」と、述べている。


・江戸は当時の世界で、最大の都市だった。増減があったが、武士とその家族が50万人と、70万人あまりの町人が住んでいた。テレビ・ドラマや、講談によって知られているように、南北2つの町奉行所が町民を治めていた。南北に奉行所があったから、行政的にいえば、2つの市が存在していた。奉行は、市長に相当した。通称を南番所、北番所と呼ばれた奉行所には、332人の町方役人といわれた武士が働いていた。この数は江戸時代を通じて、変わらない。2人の奉行のもとに、管理職に相当する与力が50人いた。その下で、283人が働いていた。そのうえ、両奉行所の役人は月番制で、隔月交替して働いた。2つの奉行所には半数の166人しか、詰めていなかった。そこで、江戸の町民人口を75万人として、166人の役人で足りたのだった。この他に、地方から商家に働きにきた人々や、出稼ぎや、訴訟などのために滞留していた者が多くいた。332人の役人のうち、64人が司法と警察業務を担当していた。このなかで、警察官に当たる奉行所付同心定廻(じょうまわ)りは、江戸時代を通じて両奉行所を合わせて、12人しかいなかった。定廻りは町方同心とも、町同心とも呼ばれ、「八丁堀の旦那」として知られた。自分の収入のなかから、それぞれ5人あまりの目明しというと、岡引(おかっぴ)きを抱えて私的に使用した。目明(めあか)しは御用聞とも呼ばれたが、同心の手先として、裏世界を内偵した。さらに岡引きが、それぞれ5人あまりの下引(したっぴき)を、自前で雇っていた。同心も隔月で勤務した。そこで岡引きと下引きを加えても、70人あまりの警官が、70万人以上の治安を維持していたのだった。これは、町民が高い自治能力をもち、公徳心がきわめて強かったことを、証している。日本人は世界で、もっとも道徳心が高かった。


・母国では貧しい者が粗暴で、暗い表情をしているのに対して、日本では誰もが明るく、人々が口汚く罵りあうことがないことに、驚嘆した。


アメリカの初代領事だったハリスに仕えたヒュースケンは、「この国ではどこにも悲惨なものを、見いだすことができない。人々の質実な習俗と、飾りけのなさを賛美したい」と、記している。


・江戸時代の日本人は上から下まで浪費を嫌い、倹約を旨として生きた。公徳心が高く、内面を律する心の働きによるものだった。金持が高ぶらず、贅沢をみせびらかすことがなく、誰もが控え目で、貧乏人は卑下しなかった。江戸には貧乏人が存在したが、西洋や、中国、朝鮮にみられた惨めな貧困がなかった。


・江戸時代の日本の水緑土の景観は、すばらしかった。どこへ行っても、神社や小さな祠(ほこら)があった。人々の崇神の心が篤く、自然を汚すようなことがなかった。


・江戸は当時の世界のどの都市よりも、飲料水に恵まれていた。家康が江戸を都市として建設するまでは、伝染病をもたらす蚊やボウフラが涌く湿地が、ひろがっていた。家康は江戸を本拠地として定めると、良質の飲料水を確保するために、小石川上水と神田上水の造営を命じた。幕府には神田上水奉行や、玉川上水奉行などの水道奉行が置かれていたが、貴重な水質を守るために、水源に番人が詰める水番屋と水衛所が設けられ、高札が建てられて、洗い物や水浴び、放尿や芥(ごみ)の投棄を、御法度として厳しく取り締まった。江戸期に編纂された『慶長見聞録』に、「是(これ)薬のいづみなれや、五味百味を具足(註・十分に備わる)せる色にそみてよし、身にふれてよし、飯をかしひよし、酒茶によし(中略)濁水をのぞき去て、清水を万人にあたへ給ふ」と、述べられている。


・江戸の人口が増すと、今日の東京都羽村市にあった羽村の取水口から新宿御苑にあった四谷大木戸の水番屋まで、多摩川上流から43キロにわたって、石樋、瓦樋、木樋を使って、清水を引き込む地下水路を掘削した。これは壮大な計画だった。四谷大木戸の水番所から地下水道を通じて、それぞれの町内に設けられた上水井戸まで、届けられた。


・今日、東京の水道水が世界一だといわれるのも、日本の精神文化が創りだしたものだ。


・日本語のなかには「心尽くし」「心立て」「心置き」「心配り」「心入る」「心有り」「心砕き」「心利(き)き」「心嬉しい」「心意気」「心合わせ」「心がけ」「心延(ば)え」「心回る」「心馳(ば)せ」「心根」「心残り」「心様(ざま)」をはじめとして、心がつくおびただしい数にのぼる言葉がある。


武士道という言葉が、江戸時代に生まれた。戦う武術が武道となって、精神面が強調されるようになった。人々が正座するようになったのも、江戸時代になってからのことだ。それまでは、茶の湯も胡坐(あぐら)をかいて行われた。女性の幅広い帯から、落語、俳句、歌舞伎、文楽、花火、寿司、天麩羅まで、江戸時代のものである。落語ははじめは軽口ばなしと呼ばれていたが、中期から落し咄(ばなし)と呼ばれた。


・落語は人情噺(にんじょうばな)とも、呼ばれた。江戸期の日本には、人情が微粒子のように、空気のなかに飛んでいた。ちなみに、西洋諸語には人情に当たる言葉がない。同じころのパリや、ロンドン、ベルリンでは、糞尿は住居に面する路上に投棄されていた。中国や朝鮮も、同じことだった。日本では、糞尿は商品だった。汲取屋が汲取式便所から糞尿を買って農村まで運び、堆肥(たいひ)として売った。このために、街路が清潔に保たれた。汚穢屋(おわいや)は立派な職業で、同業組合をつくっていた。


・日本は庶民も、教育水準が高かった。全国に寺子屋が2万軒あまりあった。庶民の少年男女が読み書き、算盤、行儀、農業、漁労など地元の産業について学んだ。今日、当時の教科書であった往来物が、7千種以上残っている。寺子屋はすべて、地元の人々の手造りだった。


・おびただしい数の私塾が存在した。日本人は身分にかかわらず、向学心が旺盛だった。


・幕府は社会秩序を維持するために、士農工商の四身分制をとったが、庶民は武家株を買って武士になれたし、農工商の区分はなかったといってよい。


・私は伊能忠敬の玄孫(やしゃご)に当たるが、忠敬は農民に属していながら、酒をつくって売っていた。渋沢栄一は明治の“資本主義の父”といわれるが、今日の埼玉県の農家で、染物の藍(あい)を栽培して、藍玉をつくって売っていたから、農工商を兼ねていた。


庶民の教養が、驚くほど高かった。江戸期の傑出した経済学者といえば、石田梅岩(1685〜1744年)と、二宮尊徳(1787年〜1856年)の2人だが、ともに庶民である。


勝海舟の曽祖父は農家の子で、全盲の按摩師だったが、金貸しをして小金を貯め、息子に最下級の武士の株を買った。幕府は身障者保護に手厚く、盲人だけに金貸しを営むことを許していた。私は盲人福祉に40年近く携わってきたが、江戸時代は2人の世界的な盲人を生んだ。


・杉山和一(1610年〜1694年)は、中国の太く長い鍼を、今日の日本の筒に入った細く短い鍼にかえた、管鍼法をつくった。和一は今日の和歌山の武家の子だったが、さまざまな苦難を乗り越えて、5代将軍綱吉の侍医となった。綱吉は和一に求められて、1680年から全国30ヶ所に、盲人に6年以上教える鍼按摩稽古所を開設した。


塙保己一(はなわほきいち)(1746年〜1821年)は、今日の埼玉県の農家に生まれ、幼少の時に失明した。人が音読したものを暗記して学び、江戸時代を代表する大学者となった。666冊にのぼる『群書類従』によって知られるが、保己一が取り組んだ『史料』の編纂は、いまでも東京大学史科編纂所が引き継いでいる。


ヘレン・ケラーが昭和12年にはじめて来日した時に、東京・渋谷の温故会館にまっ先に駆けつけた。女史はここに置かれた保己一の机を、しばし感慨深げに撫でた。女史は幼い時から、母親から東洋の日本に塙保己一という、全盲の大学者がいたことを聞かされて、手本にして努力したのだった。


・病没する前年の日記に「安(やす)きになれておごりくる人(ひと)心(ごころ)の、あはれ外(と)つ国(くに)(註・西洋)の花やかなるをしたい、我が国振(くにぶり)のふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるゝ仇(あだ)ごころは、流れゆく水の塵芥(ちりあくた)をのせて走るが如(ごと)く、とどまる處(ところ)をしらず。流れゆく我が国の末いかなるべきぞ」と、記した。


・人々はついこのあいだまで、人生が苦の連続であると、みなした。そこで、少しでも楽しいことがあれば、喜んだ。ところが、今日では多くの者が、人生が楽の連続でなければならないと思って、つねに不満を唱えて、すぐに挫折してしまう。


人生が楽の連続であるというのは、真実から遠い。だから精神がひ弱くなって、傷つきやすい。


・私がもっとも好む漢字を、揮毫するように頼まれた。私は「貧」と書いた。漢字が生れた時に、貝は貨幣だった。小さな貝を分かち合うとは、素敵ではないか。

(引用終)