ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ユダヤ団体の日本震災支援

「メムリ」の引用です。日本関連の記事は極めて少ないのですが、以下のようなニュスはもっと広く知られてもいいかと思います。数ヶ月前に、メムリに引用のお礼の気持ちを込めて、少額ながら寄付金をお送りしました。「イスラエルプロパガンダ」だという非難を直接、某大学で耳にしたことのある私にとっては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120309)、本当にプロパガンダならば、このような事例に対してどのように反応されるのか、興味あるところです。

http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP532013
「緊急報告シリーズ」

Special Dispatch Series No 5320 Jun/16/2013

救援活動を続けるジョイント―東日本大震災から2年3ヶ月―


・はじめに


2013年6月11日、東日本大震災の発生から2年3ヶ月にあたるこの日、福島県いわき市平薄磯地区では、壊れたままの防波堤で、住民と僧侶が集まり、犠牲者の冥福を祈った(6月11日付読売夕刊)。祈りを捧げたのは、この地区だけではない。宮城県名取市福島県双葉町等々、犠牲者がでたところで、それぞれ祥月命日の供養が行われている。一方、6月11日付河北新報気仙沼市で、行方不明239名の捜索が、現在も続いていると報じた。警視庁の調べによると、東日本大震災の犠牲者は、3月10日現在で1万8549人。その内2668人が依然として行方不明のままである(2013年3月11日付産経)。地域によって差はあるが、復興が進んでいる中で、身内を亡くした遺族の苦悩は癒えず、苦しみを抱えている人が沢山いる。


・現在も続くジョイントの人道支援


震災後諸外国から、多くの支援の手が差しのべられた。2年たった現在、国内団体は別としてその支援は一服感がある。しかし、今尚支援活動を続けている外国団体がひとつある。通称ジョイントとして知られる人道支援団体。正式名称をアメリカ・ユダヤ人合同配分委員会(American Jewish Joint Distribution Committee, JDC)と言う。


ジョイントは、現地で活動する日本のボランティア団体と組んで、直接被災地の住民を支援している。公益社団法人の日本国際民間協力会NICCO、仏教団体立正佼成会系の特定非営利活動法人ジェンJEN、同じく特定非営利活動法人の難民を助ける会(AAR・JAPAN)が主なパートナーである。


ジョイントは、日本に支部を持っていないので、東京都渋谷区広尾にある日本ユダヤ教団(Jewish Community of Japan フイリップ・R・ローゼンフェルド会長)が、窓口になって、上記日本側団体と協力して支援活動を行なっている


・ジョイントが力を入れる心のケア


ローゼンフェルド会長によると、支援は社会的弱者や災害で一番打撃をうけやすい層(老人、女性、子供及び身体障害者)が、主対象になっている。弱者に寄り添うことである。石巻赤十字病院に医療救援用に210馬力のトラックを寄贈し、イスラエルのホームフロントコマンドから60名編成の医療チームが南三陸地区で医療支援をした時もジョイントはこれに協力し、医療機材を提供して感謝された(医療チームが作った施設は町立診療所になった)。老人層の心理セラピーを目的とする13ケ所のコミュニテイセンターの整備(ジェンと協力)、ヒブッキー人形によるトラウマケア(岩手、宮城、福島の3県)、みやぎ発達障害サポートネットへの協力、或いは奨学資金の提供(陸前高田市)など支援は多岐にわたる。


・昔からあったジョイントと日本の関係


ジョイントが創設されて、来年で丁度100年になる。きっかけは第一次世界大戦の勃発である。しかも、日本とのかかわりも、これまでいろいろあった。


大戦の主戦場になったヨーロッパでは、従来、ドイツにドイツ・ユダヤ人救援協会(通称ヒルフスフェライン)、フランス圏を中心にAIU(通称アリアンス)が、ユダヤ人貧窮民や難民の救援にあたっていた。しかし、世界大戦で生まれる窮乏者の数は厖大であり、しかも、ロシアやトルコ支配下パレスチナにも戦火が及び、多数のユダヤ人が塗炭の苦しみを味わった。


大戦勃発時、このような背景のもとアメリカに生まれたのが、アメリカ・ユダヤ人救援委員会(AJRC、改革派)と中央救援委員会(CRC、正統派)である。事態の深刻度からみて、ばらばらの活動では対応が難しいと判断され、この二組織は1914年11月27日に合併し、更に翌年初めに労働者と社会主義者の設立した人民救援委員会(PRC)がジョイントして、アメリカ・ユダヤ人合同配分委員会(ジョイント)が生まれた。初代会長は、ク―ン・レーブ銀行の上級役員フェリックス・ワーブルクであるが、義父のヤコブ・H・シフ頭取は、AJRCの創立者のひとりであり、10年前の日露戦争時、戦費調達に苦労する日本政府に協力し、2億ドルの債券発行を引受けた人物である(戦後日本政府は勲一等大綬章を授与した)。ジョイントの活動資金集めには、シフの功績が大きい。
第一次世界大戦末期ロシアに革命が起き、多数のユダヤ人難民が発生し、その一部は極東へ流出、ハルビンを中心とする満州(現中国東北部)へ流入し、1922年時点でハルビンユダヤ人社会は人口1.1万になっている(難民の一部は横浜にも来た)。この難民の救援にあたったのがジョイントであり、日本は満州という植民地経営のなかで、ジョイントと関わりを持った。


第二次世界大戦時には、大半の国が難民の流入にドアを閉ざしたが、日本は受入れた。リトアニアポーランド、ドイツから直接日本へユダヤ難民が流入している。前者の難民は、主として杉原ビザを貰った人物である。自分自身そのひとりで難民社会の代表格であったゾラフ・バルハフティク師によると、1940年7月から41年8月末までに、約5,000名の難民が日本に来ている。これには、ドイツからの難民1588名が含まれる。この難民達は、一部は日米開戦までにアメリカへ行ったが、大半は上海へ移っている。難民の生活や移動の費用は、主にジョイントが面倒を見たのである。更に上海では、日本の支配地である蛇口地区に1万5,000名を越えるユダヤ人難民が収容され、やはりジョイントの援助をうけて、苦しい戦時生活をしのいだ。


第二次世界大戦時には、ホロコーストの生残り80万の内約42万の人々が、ジョイントの世話を受けた。終戦直後の最も困難な時期に、10万の生残りがDP(離散民)キャンプに収容されたが、その支援に大きい役割を果したのが、ジョイントである。


ジョイントは、その後も、1950年代にはイラクユダヤ人救出(エズラ・ネヘミア作戦)イエメンのユダヤ人空輸(魔法の絨毯作戦)、1970年から80年代にかけて実施されたエチオピアユダヤ人救出(モーセ作戦)或いは又、ソ連崩壊後のロシアで、窮乏生活を送るユダヤ人に対する生活支援など、さまざまな救援活動をおこなってきた。


・活動範囲を広げたジョイント


しかし、近年は、活動の幅広げ、諸外国に対する救援活動も行なっている。70か国に及び、アルメニア地震(1988年)、ハイチ地震(2010年)、トルコ地震(2011年)はその例、イスラエルの医療救援隊と協力しながら、救援活動を行なっている。コソボ紛争では、日本側と協力して、40校ほどの学校再建をおこなった。


東日本震災の被災地に対し、ジョイントは、これまで2億5,000万円(2013年5月現在)を支出して、支援にあたってきた。ローゼンフェルド氏によると、弱者に対しては息の長い支えが必要であり、支援活動は少なくともあと数年は続く。被災地支援を目的とするユダヤ人の寄付も途絶えていないという

(引用終)