ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

北海道の概略史に触れる (1)

というわけで、明治初期にプロイセンが北海道を植民地化する意図を仄めかしていたことは、昨日の独文引用でも理解できました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130511)。
一方、日本側の北海道概略史については、一度引用したホームページから(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130505)、一部語句を省略および変更した上で、ここに掲載いたします。

http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/01.html

第一章 明治以前の北海道


明治以前までの蝦夷の地はおそらく有史以来一度も斧を入れたこともない大原始林に覆われ、そこに住む人々は鳥獣を狩り、野草を摘み、川や海の魚を捕って生活。蝦夷の先住民(原日本人とも)だが、文字を持ってなかったのでその歴史はよく分かっていない


本州とは古くから交流も。和人がこの地に渡り、独自の生活をするようになったのは室町時代、14世紀の末頃から。移り住んだのは青森県下北半島の豪族であった蠣崎氏。蠣崎氏は蝦夷人を排除して福山を本拠地とし、独自の政権を。5代慶広のとき豊臣秀吉蝦夷島主と認められ、姓を松前と改め。1604年、徳川家康により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれるが、勢力範囲は道南の函館から熊石までの数十里の地(松前地と呼ぶ)であり、農業生産のない松前藩に与えられた権限も石高で表される領地の支配権ではなく、単に蝦夷地交易の独占権。


1669年、「松前藩を追い払え」というシャクシャインの檄(げき)で、ほぼ全島のアイヌ人が決起、19隻の交易船が襲撃され273人の和人が殺された(シャクシャインの乱)。幕府は東北諸藩にも出兵を命じ、アイヌ軍は敗北。松前藩に絶対服従の誓詞を提出。その結果、アイヌは和人に隷属


正式に1万石の大名として認められたのは1719年。藩財政も当初はアイヌ交易をはじめ鷹、砂金などの特産物収益に依存。松前蝦夷地は、ニシン、サケ、コンブをはじめ、いりこ、干しアワビなどのの産地として、幕藩制下の経済に大きな役割を果たす。 江戸中期から後期になると、ロシアはカムチャッカ半島から千島方面へと進出、他の外国船も北海道近海へ出没。老中・田沼意次は大規模な蝦夷地調査を行い、ロシアと交易。田沼の失脚(1786年)によって交易は中絶。


さらに1797年にはイギリス船が室蘭に来航、ロシア人がエトロフ島に上陸。翌年、幕臣であり探険家でもあった近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標柱。1万石格の松前藩に任せておけなくなった幕府は1798年松前藩を内地に移封して、蝦夷を直轄地。伊能忠敬の東蝦夷地の海岸測量、間宮林蔵樺太探検・間宮海峡の発見はこうした背景での出来事。


1804年、ロシア使節が長崎に来航して貿易を要求、幕府はこれを拒否。怒ったロシアは樺太・利尻などに侵入して幕府船を焼く。津軽海峡にも外国船が出没するようになり、幕府は松前藩に新たに城を築かせ、東北諸藩に警護を命じる。ロシアの艦長ゴローニン中佐は国後(くなしり)島に上陸、警備の日本側に抑留。報復として捕らえられた貿易商・高田屋嘉兵衛の尽力によってロシア側に侵略の意図はないことが判明。1854年、日本が開国を認めると、箱館は伊豆の下田とともに開港場。幕府は箱館奉行をおく。西洋人の渡来、洋学校、五稜郭の築城、洋式造船、キリスト教会など、それまでの縄文式(?)文明の地から、一挙に近代文明の玄関口へと変貌

(以下は後日に)