ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

小松達也氏(英語通訳者)

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9h Lily2‏@ituna4011
http://www.youtube.com/watch?v=tREz22HxkuI&feature=g-all-u&context=G203cbfdFAAAAAAAADAA.英語通訳者の草分け的存在の小松達也氏。名古屋市出身で、1996年頃だったか、名古屋港の会場で開かれた講演会でお目にかかったことがある。もちろん、NHKテレビ『英語会話Ⅱ』も、わからないながらも毎回、拝聴していた。


←(後注:実は、お目にかかっていたのは「1994年」だった。「還暦を迎えましたが、まだまだ若いのには負けません」とおっしゃっていたことを思い出したので。ところで、この「わからないながらも」という点、最近では好まれない風潮のように感じられる。大学でも、学生評価を気にしてなのか、「わかりやすく説明します」というのが講義者の売りになっている。しかし、わからないならば、少しでもわかろうと自ら努力するのも、能力のうちではないか。世の中は、わからないことだらけで、その中を生き抜いていかなければならないのだから、若いうちに訓練する必要がある。その意味で、最近のNHK語学番組は、ラジオも含めて、質が下がったように感じられる。特に、ご年配の日本人講師はいいが、中年から若手は、日本語発音でさえ、イライラさせられる。)


9h Lily2‏@ituna4011
今、記者クラブでのお話を前半途中まで聞いて、ここに移り、一言書き留めようとしている。昔、言語学関係の本や論文に夢中になって、かなりたくさん読んでいた時期があり、このお話はすっと入ってくる。名古屋港で感銘を受けたのは、あんなに著名な方なのに、スタスタとご自分で扉を開けられたこと。


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偉ぶったところの全くない、何でも自分でなさる方だな、という点。普段、自分が目にしている大学の先生達と、全く違うんだな、さすがは米国一流の人々の通訳を長年、務められただけある方は、こういう態度を取られるんだ、と強く印象づけられた。メモを残してあるが、今は記憶に頼る。


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その一つは、帰国子女は日本語ができない、という苦言だった。「‘是々非々’が訳せないんですよ。日本語がわかっていないから」。国文学科の私としては、その話に仰天したが、同時に、自戒の念とせねばならないと痛感した。よく、帰国子女は海外では伸び伸び過ごせたのに、自分の国に帰ると苦労する。


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というような話を聞いていたが、最近ではあまり耳にしない。私の学生の頃は、帰国子女が日本の学校でいじめに遭うということを聞き、その防止のために調査報告書まで出ていた。当時は、いじめられている子達に同情していたが、歳を取った今は、ちょっと違った見方をしている。時代の変化のためもある。


9h Lily2‏@ituna4011
何と言うのか、二つの文化を生きるということの大変さを、親も相当意識しておかなければ。先進国帰りの子どもが「向こうでは...」などと真っ直ぐやろうものなら、日本育ちの普通の子にとっては、(何だと!)という反応になってしまうのは、ある程度、自然なことではなかったか、と思うのだ。


9h Lily2‏@ituna4011
学校の先生も、普通の公立学校ならば、自分が未経験のことを想像しながら対処しなければならず、大変な苦労をされたのではなかっただろうか。最近、そういう話をあまり聞かなくなったのは、いわば階層による一種の選別で海外生活を送っていた人々の時代から、階層の領域が広がり、珍しさが減少した今。


9h Lily2‏@ituna4011
つまり、あまり珍しくもなくなったということと、日本社会の成熟感がなせる技なのではなかろうか、ということだ。ともかく、通訳の話に戻ると、小松先生は、日本語式発音だったが、語彙選択が見事で、内容理解が的確だという評判だった。そして、決して甘いことをおっしゃらず、謙虚ながらも厳しい。


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この、本質的な厳しさを貫く姿勢は、指導者として、自ら実践されていたと思う。あの時代、サッチャー氏やレーガン氏などの通訳を務められ、名古屋港でも「人々が談笑しながら優雅に食事をしている間、こちらはさっさと隠れるようにして食事を取るのが、屈辱的だった」とも述べられていた。


←(後注:「食事を取る」は、表記または表現ミス。「料理を取る」あるいは「食事する」でした。ツィッタ―は後の修正が難しいのが欠点です。確か、名古屋港では、ワインを飲み過ぎると通訳ができないので、控えているというエピソードや、要人の後ろに控え、自分も隙を見て急いで食べながら、同時に通訳することの難しさをうかがったように記憶しています。そのことのために、大学で同時通訳者がブースにいる会合に出席する機会の増えた現在、基本的に、通訳機を通さず、英語のまま講演を聞きながらノートにメモを取る私であっても、通訳者には休憩時間、感謝の気持ちを込めて会釈するように心がけています。私のささやかな観察によれば、私達が偉そうに豪華なお弁当などをいただいている間、優秀な通訳者ほど、サンドィッチのような軽食を自分で用意されて、お昼休みなど、目立たないように控えめに食事されています。本当にいつも、申し訳なく感じています。ちなみに、私が通訳機を使わない理由は、どうしても二言語が聞えてしまい、かえって繁雑になって疲れるからです。どちらか一方の言語に集中しなければ、内容理解が遅れます。会合の性質上、専門性の点では、通訳者より、研究者である私の方が有利であることは間違いないのですから。)


9h Lily2‏@ituna4011
しかし同時に、この仕事をしていたおかげで、いろいろな人々と出会うことができて幸せだった、ともおっしゃっていたと記憶する。こういう淡々としたさり気ないお話が非常に印象的で、(仕事が本当にできる人って、かくあるべし、なんだ)と深く感じ入ったことを、今も思い出す。でも最近、減ったなぁ。


9h Lily2‏@ituna4011
このように、本質に徹すること、一つの仕事をきちっと誠実にこなし続けること、常に努力を怠らず、信頼関係を重視する技を磨くこと、この職人技精神が減ったように思うのだ。NHK語学のラジオ番組も、最近は、イライラしながら聴いている。講師が視聴者に媚び過ぎる。内容も軽薄になっている。


9h Lily2‏@ituna4011
帰国子女批判は、相変わらずの小松先生。記者クラブでも、「若い帰国子女の通訳者は、出だしは有利だが、だんだん知的な話では優位性が薄れていく」と、事実を真正面からおっしゃっている。つまり、通訳の重要性は、「理解、理解、そして理解に尽きる」と。相手がどういう人か知らないと訳せない、と。


←(後注:この部分が、今回のご講演の映像を見ていて、最も響いた点。「知的な話で優位性が薄れていく」というのは、平たく言えば、単なる「言葉屋さん」では仕事にならない、ということ。発音がいくらニア・ネイティブで、話す流暢さが見事であったとしても、もし内容が貧弱で理解が不完全ならば、かえって相手にされないということ。そういう現実の厳しさを、最近の語学学習の教材では、まったく覆い隠してしまってはいないだろうか。楽しさや共通項ばかり前面に出して...。昔の教材は活字も小さく、語彙も文法もなかなか正確に覚えられなくて、毎回、ため息の連続だったが、それでも、信頼感と尊敬の念を持って、少しでも近づきたいと願いつつ、学習に励んだものだった。)


9h Lily2‏@ituna4011
もう一つ、「英語の先生はあまり他のこと、ご存じない」との鋭い指摘。確かに、英語だけでも、結構、通用範囲が広いためか、他言語や日本語や日本文化を知らないようなことがある、と私も感じていた。欧州では、自国語にしか訳さないのが原則だが、その代り、複数の他言語から自国語へも可能だ、と。


9h Lily2‏@ituna4011
そうなのだ。私もよく、口頭の研究発表をまず日本語で論文にして、それから英語に訳せばいい、などと言われたことがあるが、その一言で、その先生が、申し訳ないけれど、あまり大したことがないな、と感じてしまった次第。最初から英語で書いて、校正にかけておき、後で自分で和訳するのが楽なのだ。


1h Lily2‏@ituna4011
そして翌朝の今、続きを聴いている。ここでひと休み。ご自分で「国産の通訳者」とおっしゃっているが、一つ一つの通訳の機会を、丁寧にきっちりとこなされてきた自負心がにじみ出ていらっしゃる。通訳の語彙一つで、国運が歪む可能性もあったから、神経の休まることのない日々であったことだろう。


1h Lily2‏@ituna4011
それでも、小松先生の現役時代に、緊張しながらも、テレビで英語対談を拝見する機会に恵まれたことを、この上なく感謝している。テキストを何度、予復習しても、語彙を調べても、何を語っていらっしゃるのか、皆目検討がつかない対談が多かったが、それでも毎回、一生懸命に見ていた。


←(後注:また表記ミスです。「検討」ではなく「見当」。テキストの予復習だが、当時の私がした方法をご参考までに。対談のスクリプトが掲載されていたので、まずは日本語の解説をざっと読み、小松先生がどのような角度から対談にのぞまれたのかを把握→新出単語にアンダーラインを引き、極力全部、辞書で調べておく。辞書で引いた語句にも印をつける→番組を見る。英語だけではなく、テレビ画像から読みとれるスタジオの雰囲気に注目し、対談相手との関係性を、表情やジェスチャーから感じ取ろうと努める→番組終了後、できる限り早いうちに、テキストの英語スクリプトを音読する。時々、内容に興味の持てる部分が出てきて、そこは大事に記憶に留めた。当時は、錚々たる方達が出演されていて、英語を学ぶことの厳しさと同時に、海外の知的社会を高く見上げる機会だと実感したものだ。)


1h Lily2‏@ituna4011
今では、マレーシア滞在によって、英語については、応用力は多少ついたかもしれないが、洗練さに欠けてしまい、あれほど好きだったドイツ語も、勉強時間の減少によって、大したことはなく、スペイン語も何だか楽しむだけに終始してしまっている。だからこそ、学生時代が何だか懐かしくてたまらない。


1h Lily2‏@ituna4011
未知なるものに対する畏れの感覚というものは、歳を取ればとるほど、ますます研ぎ澄ましていきたいと強く願っている。慣れから来る惰性が、最も恐ろしい。そして、視野の狭さに安住してしまうことの愚かさも、当然、日々、気をつけていなければならないと思う。


1h Lily2‏@ituna4011
先日、キリスト教史学会の懇親会で、神学博士号と牧師資格を持っている目上の男性の先生から、クリスチャンかどうかを尋ねられた。つまり、クリスチャンでなくとも、キリスト教史学の研究はできるのだが、あなたはどちらなのか、というわけだ。内心、(これだから、日本のキリスト教は....)と。


1h Lily2‏@ituna4011
何年も前に書いたことだが、実は、マレーシア関連では、日本人と非日本人の両方を含めたムスリムの方から、非常に丁重に接せられている。つまり、「普通の日本人が、こういうテーマに取り組んでいる」ことの驚きと同時に、「ムスリムにはできないが、やはりクリスチャンならではの視点だ」という理由。


←(後注:この両義的なムスリムの曖昧な態度については、クルアーンの記述をしっかりと研究することで、ある程度は理解が可能である。私のテーマを見て、「これはセンシティブだから」と、勝ち誇ったように論評したがる日本の大学の先生達がいないわけでもないが、そのような中途半端な態度こそ、ムスリムにかえって失礼というものだ。ただし、ムスリムにもいろいろなタイプがあり、一人一人見分ける目が必要なのは断るまでもない。)


1h Lily2‏@ituna4011
普通のムスリムならば、すぐにわかるようなのだ。「あなた、どこの教会に行っているの?」とまで聞かれる。「ユーリちゃんがキリスト教信仰だって、自己紹介ですぐわかった」とも。クルアーンに、ムスリムにとっての最も近しい友はクリスチャンだ、という意味の文言が書かれているからでもあろうか。


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また、ユダヤ教徒の方達からも、「最初からわかっていたよ」と言われる。つまり、一神教は問題を多く孕んでいる一方で、相互に理解し会える共通項が存在するという有力な証左なのだ。これを「近親憎悪」と呼ぶようでは、興ざめである。話はすっかり逸れてしまったが、つまり、ここでも「理解」が問題。


1h Lily2‏@ituna4011
つまり、英語力がいくらあるとしても、本質的な理解に曇りのようなものがあると、先程の懇親会のような会話が出てきてしまうのだ。オーソドックスな「神学」の世界に縛られているからでもあろうか。しかし一般人としては、神学を知らなくても聖書は読めなくもないし、誰がキリスト教かも、大凡わかる。


←(後注:末尾の「誰がキリスト教かも、大凡わかる」というのは、幼稚園以降の習慣から。学校は国公立ばかりだったので、かえって視点がはっきり浮かび上がるのだ。日本で、世間一般の人々がどのようにキリスト教を見ているかも、極めて限られた経験とはいえ、何となくはわかっている。ところで、あるイスラーム地域に焦点を当てて研究している年下の女性が、ある研究会の席、私に喚くように言った。「だってぇ、ユーリさんは聖書読んでるかもしれないけど、こっちは誰がクリスチャンかもわからないんだからさぁ!」この一言で、彼女が、大変申し訳ないが、いかに学歴が高く、優秀だと言われている大学を出て、今もれっきとした大学の専任職についている事実を勘案しても、まるで基本ができていないことが判明し、興ざめもいいとこだった。わからないなら、イスラーム論理で押してくるな、と言いたい!)


1h Lily2‏@ituna4011
だから、小松先生のお話に戻れば、こういうことなのだ。生半可な知識の人ほど、危ないというが、私のこれまでの研究発表も、最初から先入観で相手を見ようとするから、こちらの連続発表の真の意図が伝わりにくく、そこが不満のたまる一因なのだと思う。ブログを始めたのは、そもそもそれが理由。


1h Lily2‏@ituna4011
小松先生はおっしゃる。「知識があれば、10語のうち、2,3語わかれば通訳はできる」と。しかし問題は、その「知識」の身につけ方なのだ。「国産の通訳者は多く、一般の英語能力としては高いが、通訳としてはまだまだだ」と厳しく指摘されていた。私の事例に戻れば、神学的知識は高度でも...。


1h Lily2‏@ituna4011
マレーシア派遣に伴って生じた私の過去22年間の経緯を、これまで繰り返し述べた上で研究発表をしているのに、それでも、クリスチャンかどうかをこの場に及んで尋ねてくるという事態そのものが、「通訳者としてはまだまだ」ということの応用編だとも言えようか。つまり、牧師としては疑問符がつく。


1h Lily2‏@ituna4011
教会に欠かさず熱心に通うということは、非常に重要な習慣だ。しかしながら、昨年の私なりの必死の模索に反映されているように、現在の日本の神学が、基本的な点で混乱状態にあり、小さなマイノリティなのに争っている状態ならば、むしろ、そこから距離を置いたあり方だって、一種の健全さだと思う。


←(後注:「日本の神学の混乱」については、例えば、2011年5月11日・8月8日・9月2日付「ユーリの部屋」を参照)


1h Lily2‏@ituna4011
ということが、見抜けている牧師ならば、黙って温かく見守ってくださるだろうと信じる。この点で、カトリック司祭は、さすがは経験知が豊富で、「人にはいろいろな時があります」と鷹揚に構えていらっしゃる。だから、カトリック教会に大勢の人が集まるのだろう。一種の甘さも否めないが。


7m Lily2‏@ituna4011
とはいえ、先の神学博士の先生の名誉のために申し添えれば、非常に賢明な人生行路を選択されていると感銘を受けてもいる。若い時から神学しか学ばず、牧師になるか、人と違った研究で名を挙げて大学に残るかしなければ、食べていけないというような道ではないのだ。つまり、他の専門性で生活力抜群。


5m Lily2‏@ituna4011
これは、今後の日本のキリスト教会指導者を養成していく上でも、注目すべき点ではなかろうか。教会信徒の献金のみに頼って牧師が暮らしていくとなれば、高齢化と人口減少の昨今、信徒の経済負担も並大抵のものではない。人間関係もギスギスしがちだ。だから、パウロのごとく手に職のある方が強い。


←(後注:この件に関しては、2008年2月10日・2009年1月22日付「ユーリの部屋」を参照)


3m Lily2‏@ituna4011
しかも、単なる「手に職」ではなく、ルターの‘Beruf'概念とご自身の人生行路が直結しているという点が重要だ。細部は省くが、今も非常勤講師の傍ら、家業を分担され、世間を知っていらっしゃるという点は、経済面でも有利だ。献金が気になって、教会の人々に媚びる必要性がないからだ。


49s Lily2‏@ituna4011
その意味では、私も一種の強みがないわけでもない。22年前にマレーシアで仕事をしていた時にいただいていた給与の貯金が、まだ残っているのだ。これが尽きるまでは、少なくとも、勉強が自前で続けられる。気長に、着実に、マイペースで続ける。これこそが、私なりの持ち味の発揮であれば幸いだ。


20m Lily2‏@ituna4011
そしてもう一点、先生はおっしゃった。「名古屋出身で名古屋大学? 優秀だなぁ」と。関西に来て15年、京大や阪大や神大関関同立などがプライド高く根を張っているせいか、ここの人々に名古屋なんて、目じゃないのだ。これまで、どれほど自慢タラタラ聞かされたことか。一方、我が弟も京大の専任。


17m Lily2‏@ituna4011
こういうおかしなことになるから、目の前の人だけを見て判断することがいかに危険か、滑稽か、を思うのだ。もちろん、私は女でもあるから、社会上の通例として、普段は黙って聞いているが、内心、不愉快であることは確かだ。でも、‘Beruf’先生によって、ちょっとは落ち着いた、かな。


15m Lily2‏@ituna4011
なぜかというに、先生曰く、「名古屋へ今も時々出張に行くけど、名古屋の人は、徳川文化だ。東京を見て暮らしている」と。ご明察!そうなんですよ。だから、関西に愛着があっても、どこか違和感を持たざるを得ない。大学の気風だってそうだ。東京や東北の方が、自然と落ち着く自分を見出している。


13m Lily2‏@ituna4011
こればっかりは、どうしようもない。人類学お得意の、生得的な紐帯だ。理屈なんかじゃない。高等教育なんかで、若い学生を思想改造しようったって、そうは問屋が卸さないのだ。ハイエクを想起。そして、時々は赤味噌きしめんを作ると、非常に落ち着く私。これも、どうしようもないこと。


←(後注:「ハイエク」については、2011年5月23日・5月24日・6月5日・8月30日・2012年1月20日付「ユーリの部屋」を参照)


10m Lily2‏@ituna4011
....というわけ。徳川美術館に行くと、遠く時空を超えて、ご立派な遠戚に久しぶりにお目にかかれるような気がする。至福のひと時だ。こういう幸せを大切にしたい。そして、幸せな分、他の人々に何か自分のできることで、ご奉仕できればと願っている。

(転載終)

http://www.simul.co.jp/corporate/news/2012/0313-1.html
株式会社サイマル・インターナショナル顧問の小松達也氏が、日本人の英語学習について日本記者クラブで講演を行ないました。
著者と語る「英語で話すヒント―通訳者が教える上達法―」(3/6)
動画(1時間39分)

要約(文責:ユーリ)(注:自分用の覚書として、広告の裏に走り書きしたものをワープロ打ちしたため、順序が乱れたり、末尾の質疑応答で入り混じった内容になったりしています。必ずしも正確な筆記録ではありませんが、どうぞご了承ください。)


小松達也(1934年 名古屋市生まれ)現在78歳。
経験に基づく話なので、信憑性に欠けるが、いろいろな言語学理論の研究論文を読み、それらに照らし合わせているので、それほど間違ってもいないかもしれない、というお話。
通訳者は言葉のプロで、それで食べている。プロというのは、人並み優れてできることを指す。
我々は、日本語から英語にも通訳するが、欧州では、自国語にしか通訳しないのが原則。その代わり、他言語も幾つかできる。従って、我々の事例は珍しく、日本語特有の現象と言えよう。国産通訳者としては、英語ができるのは、ほぼ不可能。帰国子女の通訳者には、若い人に多いが、出だしの頃は有利であっても、知的な側面で徐々に帰国子女の優位性は薄れていく。
通訳になりたい人は、第二言語能力としての英語力が不足している。流暢に話すことは無理だが、きちんと内容のあることを話す。この点において、彼らは逆に不利だ。聞いたことを正しく理解して、本当は何を言いたかったのか、どうしてそういうことを言うのかを考えて通訳すること。わかりやすく、聞いたことを伝えること。これが通訳の仕事。
例えば、ハンドアウトにある2月29日のヒラリー・クリントン氏の上院での発言。北朝鮮での結果報告。‘Watch and Judge.’(よく見て判断する。)北朝鮮への食糧援助は、一部やってもいい。‘modest first step.’(大したことないけど、正しい方向への第一歩。)
通訳は、‘comprehension’が肝要。第一に理解、第二に理解、第三に理解。これに尽きる。相手の言ったことを正確に理解する。相手がどういう人かを知らないと、知識を持っていないと、通訳はできない。例えば、サッチャー氏。イギリスの保守的な人。彼女がどんな人かを知っておけば、三分の一はわかる。そういう意味では、英文科を出た人よりも、国際関係や法学部や経済学部を出た人の方が、通訳には向く。
前後関係で類推するしかない。‘word recognition’聞き落としても、一つ二つ聞き取ることができたら、類推。‘inference’という。大抵、7−80%は当たる。聞き取れないことはしょっ中ある。

‘listening’, ‘understanding’, ’speaking’, ‘expressing oneself’
通訳と英語学習を一緒にするのは、欧州ではタブー。日本のように英語力がまだ足りない人は、通訳技術を教えるのに手間がかかる。
言葉+知識 例)3.11後の放射能原子力の知識など。
言葉のことに集中し過ぎて、内容をあまりやらない。英語の先生は、あまり他のことをご存じない。語学の訓練で知識的な面を軽視してきたことが、日本の英語の弱点。内容を知っていることが大切。知識があれば、言葉の力不足をかなり補える。
発信力が大事という時代。アイデアを英語にするのが通訳。
話すことは、一つ二つ単語並べることで通じる。相手の言っていることがわからないとだめ。知識よりは、推量を使って判断する→効果的な聞き取り
日本語で考えて英語で話す。英語話すヒント。「英語話すヒント」と大きく違う。
中学から英語を始めるが、その頃、我々はかなり日本語の知識を持っている。そこへ英語が少しずつ入ってくる。考えることは日本語で、というのは当然。どこかで英語に。心理学の分野でいろいろな研究があるが、「どこで」かは不明。日本語で考えないと、まともにならず。英語だと、たどたどしい考え。日本語で考えることは必ずしもマイナスにはならない。
帰国子女や、子どもの時から英語をやっている人はいる。critical periodは10−12歳まで。
英語らしい文章を作る。シンタックス。文法をいかに使うかが、基本。チョムスキー以来、言葉のルール、すなわち文法の規則に従って使える。英語は文構造がはっきりしている。SVO. 修飾句。preposition.
先程のクリントンの英文。文法の知識を使って意識的にやろう。時間がかかる。最初はゆっくり話せばいい。練習すると速くなる。
ゴルフは頭で考えて打つ。自動的に正しく打てるには、何千回もやる。スキルの修得。
言語心理学。cognitive theory, cognitive approach. 言葉の力は複雑な技術の修得。automatization. 自動化。
国産の通訳者は多い。一般の能力としては英語力高いが、通訳としてはまだまだ。一生懸命に本を読んで工夫して勉強しろよ。それしかない。「アメリカ人のボーイフレンドをつくったらどうか」「アメリカかイギリスに一年行ったらどうか」本当に流暢になるには、それしかないが、普通の人にはできない。身につかない。厭でもはっきりする。自分の考えが相手に伝わる。独り言でもいい。私はしょっちゅう、ブツブツ独り言をやっている。(あのおじさん、おかしいんじゃないか)と、すれ違った子どもが思うかもしれない。
その人ならば、こういうことを言うだろうと推測する。
一年半ほど前、ダライ・ラマの通訳を国技館でした。生き仏だというので、隣に座っては駄目で、三歩下がって後ろに座って通訳。すごい反響で聞き取れず。ダライ・ラマの話が始まると、さっぱりわからない。目の前に2,3000人の人がいる。彼らは、入場料をかなり払って来ている。心が破れる思いをした。聞いて訳そうと思ってもわからない。50年のベテラン通訳という自負心があっても、わからない。その二日前に外国特派員協会ダライ・ラマの話を聞いていたので、そのままやった。時々、聞こえるので、それを頼りに。前日に、ウェブでダライ・ラマのホームページを見て勉強した。だいたい、どういうことを言う人か。聞いている人は、幸い、誰も気づかない。コーヒー・ブレイクになって、「悪いけど、隣に座らせてくれ」と頼むと、ダライ・ラマは気安い人で、「どうぞ、どうぞ」と。それで、後半は大丈夫だった。
この例からわかるように、知識があれば、10語のうち、2,3わかれば通訳は可能。
未来学者のハーマン・カーンという人の通訳は何度かやった。あの人の英語は、ジェームスさんでもわからない。専属の通訳がいた。あの人の英語を英語に訳す人だった。自分が通訳する時は、ハーマン・カーンの本を読んで勉強して推測する。その後は、他のスピーカーの通訳がとても易しく感じられた。
国産の人間としては、ボキャブラリーが大切。シンタックスの能力。流暢さには欠けるが。的確な単語を知っていること。よく、get, have, giveを使えというが、これは難しく、間違いだと思う。易しい英語を駆使するのは大変。難しい単語を並べる方が楽。語彙は、知能の働きなので、年齢と関係がない。音声は年齢と関係があり、ネイティブと同じ発音は絶対にできない。文法も難しい。
日本語的表現をどう英語にするか。発想の違いのおもしろさ。日本の方々のお話は英語になりにくい。譬え、慣用句、非常に多い。擬態語、オノマトペア
例)鷲田清一『ぐずぐずの理由』
例)今の首相はパッとしない。(He is not very exciting.)
主語を落とす日本語。
例)読売新聞「貸した金を返す気のない孫」(『人生案内』欄)
←びっくりした。日本語ではおかしくない。「借りた金を返さない」ならわかるが。

情緒的な日本語。
例)「甘え」土居健郎
そんなことは決してない。英語にするのが難しいのみ。甘えるのは、アメリカ人もイギリス人も。言い方が違うのみ。当たらずと雖も遠からず。
無意識的に覚える過程は大人にもある。第二言語習得論。
チョムスキーのuniversal grammar. 生得的なもの。2,3歳になると、どの子も母語を喋れるようになる。大人になってもあるかどうか。100%ではないが、かなりあるというのが、今の言語学の理論。

例)西武新宿線「この電車は次の鷺宮で急行に乗り換えられます」
「この電車は途中で急行に抜かれます」ならわかる。あり得ないが、平気。曖昧さの原因の一つ。曖昧な話を曖昧に訳すのは難しい。英語にすると、はっきりしてしまう。煙幕をわざと張る高度な技を使う人もいる。その人の心を読む。
通訳者は黒子。(歌舞伎)‘Interpreters are invisible.’


日本語の英語教育との関連。今、小学校でも英語導入。高校でも英語でやれ。会話を学校で教えることは効果的ではない、と私は思う。無駄だ。今はだんだん知られている。会話は、状況と密接に覚える。外国では自然と覚わる。もっと中高では、読む、聞く、インプット重視で。使える文法、基礎きっちりと。大学になってから、本格的にコミュニケーションを。今の大学の英語教育は極めてお粗末。大学出て、いきなりビジネスで英語を使うことになる。学校教育にあまり期待すべきではない。英語ができる人はたくさん知っているが、基礎や刺激は学校で与えられるが、ご自身の工夫で身につけられたのでは?自分に合ったプログラムを見つけて、工夫して、自分で続けないと。刺激して自分で勉強して、より高度な英語力を身につける。それが望ましいのでは?
大変長いこと勝手なお話して失礼いたしました。(拍手)

[質疑応答]
なかなか日本人の学生は質問をしない。どんな質問でもいいから、とにかくやりなさい。それでいいんだ。なんでも聞くもんだ、と学生に言っている。

Q:元NHK国際局勤務。退職して20年。今も英語に苦労している。英語で考えろ、と言われるが、どうしたらできるか?
A:いろいろ聞いて、自然に英語が身につくということはあり。主流の言語学によると、この自然な方がより重要。日本人の場合は、英語との接触が少ない。意識的にした方が効果的だと私は考える。聞くのが一番いい。せいぜい、ミステリーのようなものを読むとか、CNNを聞くなどして、英語に触れる。少しでもわかれば、プロセスを経て英語が自由に話せるようになる。

Q:質問は2点。①Global+English=Globish. これをどう考えるか。②これから英語を磨くためのボキャブラリーで、一番大切なのは何か。文型か発音か。
A:1983年から4,5年間、「NHKテレビ英語会話Ⅱ」の講師を務め、英語通訳のキャリアでも重要な働きだった。NHKにはお世話になった。
①世界語としての英語。母語でないアジア、アラブの人との通訳の方がずっと多い。英語の中立化、記号化していいのか。そんなに効果的ではない。言語と文化は密接に関わっている。英語は共通語ではあるが、Globishというものはないし、求めない方がよい。Globalizeしていても、日本ではなかなか英語に触れる機会が多くない。日本語と英語は大きく違う。世界の中で英語の位置づけ。Globishという言語があるかのように考えるのは、間違い。
②ネイティブのように話すことは望まない方がよい。日本人であることがわかる方が、耳を傾けてもらえる。あまり達者な英語だと、国際舞台では尊敬されない。英語が好きになる≒英語文化が好きになること。しかし、英語で立派な文学作品を書くインドの人もいる。背後にある文化に興味がなければ、言葉を学べないと思う。韓国語や中国語を学ぶことも、隣国だから大切。しかし、そういう人とでさえ、英語で話すことが多い。英語は特別な地位にある。シンタックスが一番大切。単語を増やすこと。自分の考えを整理して、2,3つの単語を出せば通じる。発音はあまり重要ではない。

Q:元毎日英文ジャーナルのFです。私も英語で一生やってきた。失礼ながら、自説を述べた上で、先生のご意見をうかがいたい。小学校での英語導入を心配している。英語は、言語学的に優れているという見識を子どもたちが持ってしまわないか、と。英語が広まった理由 ①米国の出現と存在 ②大英帝国の遺産③26文字でできるとっつきやすさ。自分は、ナショナリストでも国粋主義者でもないが、日本語は素晴らしいと思っている。漢字はアナログで、見てすぐにわかる。それに、アルファベットに相当する平仮名とカタカナは、漢字と統合することで表現できる。(ユーリ注:平仮名は、漢字を崩してできたものであり、カタカナは漢字の一部を取り出して作ったものである。従って、アルファベットに相当するとは言えないのではないか?)そこで質問。どうして、日本の国連への支出金が世界第二なのに、日本語が国連公用語にならないのか。第二の質問。会社でオフィシャル・ランゲージと言うが、重さを知らずに使っているのではないか。
A:日本語は我々の言葉だから、大事にしなくてはいけない。日本語を大切にすることが、英語も大切にする神経につながる。小学校の英語は、いろんな問題がある。ただ、実際には、5年生からちょっとやるだけで、大したことはない。英語に対する認識や外界に対する意識を植え付けてくれればいいな、と。内向き日本人の今。それ以上期待すべきではないし、するものでもない。日本語の第二公用語について、英語を使う楽天ユニクロなどの会社では、果たしてその必要があるのかどうか。国際教養大学では、ミーティングに外人も入ってくるので、英語でやらざるを得ない。日本人のみなら日本語で、英語で話すのは何かおかしい。留学生がいるので、英語で話さざるを得ない。外国の学生は、いかに考えが違うか、これが大切。どういう必要があるのか、もっと外国の人を入れると、豊かな環境になる。自然と英語になる。人間を入れることの方が大切。文化が入ってくるから。

Q:テレビ朝日。政治の世界をずっと見ている。日本語英語の方がいい。今の総理大臣で英語できない人が多い。このことのプラスとマイナス点は?ある程度できた方がいいと自分は思う。通訳にしても、日本語にしても、伝わりやすいのでは?首脳同士、ジョークを言っている。相手に笑ってもらわないといけないという苦労する。
A:一言で言うと、スピーチは英語でできるけど、質疑応答ができない、というのが多い日本人。これはあまり芳しくない。それなら、スピーチは日本語で通訳を使う方がいい。カクテル・パーティーでは、個人的接触の時、自分で英語でやる方がいい。本当の政治の真剣な話は、これは相当の高い英語力が必要。これを政治家に期待するのは無理。話題が大切。本当の話まで英語でやられるのは、通訳者に一つお任せいただきたい。ジョークは難しい。ぴったりというジョークは難しい。「すみませんが、彼が言っていますから、笑ってください」というしかない。

Q:共同通信。初歩的な質問。前置詞、時制、冠詞が難しい。会話では煩わされずに使えばいいのか?
A:結論から言うと、イエス。煩わされない方が大切。‘intelligibility’と‘communication value’それが大事。主語の複数形や未来形は、コミュニケーションでは低い。動詞と名詞をきちっと形に並べることの方が大切。通訳はプロだからきちっとすべき。一般のコミュニケーションなら、今言った通り。

Q:テレビ朝日東日本大震災の時、首相や大臣の会見が、NHK国際放送やCNNで流れた。同時通訳は入ったが、ひどいという評判だったということを、外交官から聞いた。英語に同時通訳する人は英語を母語とする人に、というのは、現実的に東京で、そういう時、手当できるのか。改善策があるのか。サイマルでどのぐらい通訳がいるのか。対策はあるか。クリントン氏に言った首相がいた。‘How are you?’と言うべきところを、‘Who are you?’と。
A:答えづらい点がある。私自身も力不足を自覚してきた。国産通訳者でも可能だと思う。出来る人が少なくともかなりいることは事実。選ばれるかどうか。見積もりで選ぶ傾向が強い。会計基準もうるさい。「通訳者は商品ではない」と言いたい。有力ジャーナリストの協力を得たい。本来は、ネイティブが望ましいが、第一線に出ていない。日本は非常に少ない。養成訓練に力を入れたい。可能性のある人はいる。高松さんという女性、実にすばらしい。同時通訳の訓練を与えれば、他にもいる。プロの通訳者で英語のネイティブ少ない。日本語と英語しかいない。普通は同数いるはず。幅きかせている。お粗末な仕事しかしてこなかった、ということではないか。(終)

[ユーリの独り言]
小松達也先生のお話は、淡々としているが、具体的で、大変に懐かしく、総じておもしろかった。しかし、この話の対象となる聴き手は、どのような層を想定されているのか、気になった。

ベテラン通訳者としての経験知に基づくお話は、説得力があるが、講演内容も質問の方も、随分古い話を持ち出されているように感じた。例えば、ベーシック英語やグロービッシュなどは、ここ数年で出現したのではなく、特に後者は、1990年前後のことではなかったか。国連公用語に日本語を、という提案も、確か、私が大学院生の頃、鈴木孝夫氏あたりが、エッセイか何かで主張してはいなかったか。

日本で英語に触れる機会が少ないとおっしゃったが、今の環境は、私の学生時代とは雲泥の差。若い人は、あまり抵抗なく、外国語全般に触れているのではないだろうか。例えば、昨今の私の場合、英語のメールは毎日当たり前だし、英語ブログも、ニュース・コレクションのようにして、ほぼ毎日、更新している。時には、自分の英語でコメントをつけてもいる。英語のラジオ番組、テレビの海外放送、インターネットの活用など、英語を読んだり聞いたりするのは、もはや習慣化していて、特別なことだとも思っていない。ドイツ語やスペイン語を続けているのは、18, 19歳から始めた以上、辞書も練習問題の本も参考書もあって、ないのは時間だけ。とにかく「もったいない主義」から、やめるわけにはいかないのだ。その上、自分の母語である日本語をさらに磨き上げるためにも、さまざまな発想や情報に広く恒常的に触れるためにも、英語だけでは不足だと思う。時制や前置詞や冠詞の使い方が、ごちゃごちゃになってしまうこともあるが、それでも、欧州言語を複数学ぶことで、英語もより楽に、幅のある表現ができるようになるのではないかとも思っている。

一番おもしろかったのは、学校に頼るな、という訓示。自分で工夫して努力を続けていくことの大切さが伝わってきた。私の場合、英語よりもドイツ語の方が先に話せるようになり、英語文化より、ドイツ語文化やスペイン語文化の方に、より具体的な興味があった。英語は、情報を得るためにも、コミュニケーションの手段としても、やむを得なかったので勉強した、というのが本音に近いところ。その意味で、自分の経験と照らし合わせながら、小松先生のお話を久しぶりに聴けたのが、大変貴重な機会だと感じられた。
「発音はあまり重要ではない」というお考えのようだったが、それは小松先生が、日本語式英語の発音だからでもあろう。一方、「発音クリニック」のようにして、いろいろ教えたがる語学教師も目につく。もちろん、個人のセンスと努力によって、発音がネイティブに近い方が、より好ましいであろうことは、容易に想像がつく。しかし、問題は、いくら発音がきれいであっても、内容がお粗末ならば意味がない、ということをおっしゃりたかったのではなかろうか。
小松先生のお話をうかがいながら、英語に触れる機会が限られていた1980年代の地方学生としての涙ぐましい努力は、例えは悪いが、飢えたる子が必死になって食べ物を求め、残さず平らげようと骨までしゃぶっていたかのような、そんな感覚を呼び起こした。それが今、ある程度は実を結んでいる面もあるのではないだろうか。完璧には程遠く、一生、このような過程の繰り返しを続けていくのだろうとは思うが、それでも、その努力が嫌いではなく、むしろ、楽しんで続けられたのは、小松先生の『NHKテレビ英語会話Ⅱ』のおかげでもあったと思う。内容がわからないなりに、それでもテキストに必死で書き込み、内容理解に少しでも近づきたい一心で、テレビ画面に集中していたあの数年間が、今にして思えば、英語そのものとは違った間接的な意味で、何らかの自己形成にもつながっていたのだろうと思うのだ。