ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シンポ・鳩山会館・谷中霊園 (5)

東京一日鳩ツアーを自主決行してから早くも12日が経ってしまいました。当日はめいっぱいのスケジュールで充実していましたが、時間がたつと(そんなこともあったなあ)という懐かしい感触。今日で、このシリーズも最終回です。
シンポジウムは、結局のところ、総理のご挨拶が長引いたためもあってか、予定より15分延長して1時からお昼休みに。いつの間にか、椅子に座っていた人々が次々に退席していて、すっかりガラガラ。ずっと英語を聞き取りながらメモをとるのも疲れるもので、早朝の新幹線だった上に、夫の勤務態勢のために連日こちらも睡眠不足で、途中で不覚にもうつらうつらしてしまいました。というわけで、本当は午後も参加するつもりだったのを、テレビ放映されると聞いて急遽、予定変更。
2時には東京メトロ鳩山会館に到着していました。肌寒かったものの、天候に恵まれたのが幸いで、3時40分までじっくり拝観。
入り口の門には、なぜか邦夫氏の息子さんの「鳩山太郎」のポスターが大きく貼ってあって、(もうそろそろ、それぞれ自分の好きな道を歩ませてあげても?)という気分に。警備の人は、門にも二人ほど、受付近くにも、そして二階にも庭にも階下の裏口近くにもいらっしゃいました。どの方も、とても愛想良くて親切で、確かに、「何から何まで世話になって」という由起夫氏の言葉を裏付けるものが、こういうことなのだな、と。
そして、今の政権支持率とは関係なく、ここで育ったお孫さんが現役総理ということもあってか、結構、次から次へと訪問者が団体で訪れ、なかなかの賑わい。時間帯からご年配者が中心でしたが、こういう訪問はタイミングも重要で、誠に失礼ながら、もし「賞味期限内」でなければ、いずれは「明治村」感覚になる可能性もなきにしもあらず。また、白髪のおばさんやおじさん達は、平気で勝手にいろいろしゃべっていました。父威一郎氏の部屋の書棚に、財政の古い専門書がずらりと並んでいるのを見て、「こういう本を鳩山由紀夫さんに読ませなかんわ」「でもあの人、数学すごくできるみたいだよ」「威一郎氏はハンサムだね」「この人いい人だったよね」なんて言ってみたり...。見られる方も、有名税として慣れているとはいえ、大変だと思います。
もともとは、洋館といっても相当古びた家屋になってしまったために、すべて取り壊すという話もあったそうで、解体前のボロボロの状態も、そのまま写真で一部提示してありました。が、「鳩山家がここまでこられたのも、皆様のおかげと感謝の気持ちをこめて、一旦解体して、最高技術を駆使して元通りに修復した後、公開することにいたしました」という意味のナレーションが、ビデオから流れてきました。(平成7年7月から平成8年5月にかけて竹中工務店が工事を担当され、安子氏の名前で修復がなされたとのことです。)その部屋は、第一応接室で、重要な会談などは、ここで行われたのだそうです。確かに、今の建物の基準から見ればややこじんまりとはしていても、落ち着いた色彩でシックな感じで風格がありました。第二応接室、ダイニングルーム、サンルームなどは、ぐっと明るく、さっぱりと洗練されたお部屋で、こういう場所で日本近現代の重要な歴史が作られていったのだと思うと、確かに感慨深いものがあります。
もっとも、公開されているのは表側の一部で、奥の台所や書生室であったであろう場所は、暗く鍵が閉められ、何か荷物も置いてありました。
合間には、各々自由に広々とした洋風のお庭へ降りて行き、記念像や一郎氏が好きだったというバラ園を見たり、(ゴルフの練習はこの辺りで?)と想像しては写真を撮ったりして、忙しく過ごしました。予め本で読んでおいた箇所を想起しては、(あの場所に今、私がいるなんて)と不思議な感覚もありました。
一郎氏や威一郎氏の記念室は二階にあり、少し離れた一角に、十畳の和室の薫記念室。私が最も見たかった、そして一番好きになった場所です。感激して、うろうろ周囲を見渡していたら、警備のおじさんが、こっそりと「もうすぐ別の団体が来ます。今のうちに中に入って資料を見てください」と教えてくださいました。
展示物は時折交換されるのか、パンフレットの写真とは少々異なる点もありましたが、充分楽しめました。やはり、事前に『鳩山一郎・薫日記』()()や『若い女性のために』や『おもひで』などを読んでおいたのが功を奏したと思います。
日ソ国交回復の交渉のために訪ソした際に持って行った黒布地のハンドバッグ。桐箪笥。しっかりと使い込まれた黒表紙の讃美歌計4冊。‘Radio Japan NHK’と縫い込まれた織物布の表紙の手帳数冊。一郎氏が亡くなった3月7日には、小さな手帳に鉛筆きでただ「10時47分」と走り書き。空欄の多いそのページは、3月4日が「散歩の最後」、3月5日には「書道の最後」。鉛筆で下書きした原稿。ソ連訪問時の日誌を兼ねた観察日記の実物。自身を孫には「おじいちゃん」ではなく「大パパ」と呼ばせた一郎氏に倣って「大マゝの日誌」と万年筆書きされた茶封筒。姑春子氏が嫁選びに際して自身の体験を綴った雑誌投稿文。化粧鏡。鈴木善幸氏からの昭和57年8月15日付正四位の勲章と賞状、等々、見飽きませんでした。
それにしてもすごいなあと、その濃縮された長い人生に圧倒される思いです。やや古風ではあっても、変化激しき時代に、女性が夫を支え、しっかりと子育てしながら生きていくための勉学や身だしなみ、思いやりを大切にする対人関係などの基本精神は、ほぼ違和感なく現代に通じる面もあると思わされます。しかし『日記』によれば、毎日のように、数名から十数名の来客。一時間刻みの外出の予定。結婚披露宴やお葬式やお見舞いや学校関連の会合の挨拶。合間には、連続テレビ小説でも有名になった「あぐり」の美容室「吉行さんで洗髪」。歯医者。旅行。音楽会。そして、ある場合にはお嫁さんの安子氏に頼んだり、娘さん達にも応援してもらっての、選挙運動。時には宮中へも。食べ物やお菓子(鳩サブレ)などをいただいては、お礼状。時々、依頼されて揮毫。とにかく、少しはごろりとゆっくり休んで本でも読みたくとも、その暇が物理的にとれない、というような人生のように見えます。定期的に讃美歌を歌っては、演説に備えて喉を鍛え、かつ、懇談の時にされていた模様。本当に、薫子さんが弾いたのであろう小さめのオルガンも展示されていました。
肝心のお孫さんに関しては、どの子も大切にしながらも、やはり直系の威一郎氏の息子さん二人を特にかわいがっていらしたようで、「由起夫ちゃんのぜんそく」をお医者さんに診ていただいたり、インコが落ちて「朝から邦夫ちゃんの泣き声がする」など、それほど記述が多くはありませんが、今では想像もつなかいような微笑ましい事項も書かれていました。
覚え書きのような日記なしに、あのような多忙な生活を送ることは難しいらしく、一郎氏や薫子さんが、それぞれ、小さな字でこまごまと綴った帳面。それらが陳列棚に開かれ、書籍として活字で読んだものが現物資料として目の前に置かれているのには、不思議な思いです。
一郎氏の本棚をざっと眺めたところでは、易経孟子老子、大学、世界外交史、民法、刑法、商法、財政、経済二十五年史、The Encyclopedia Americana、10センチほどの厚さの大型詩編The Zabour)1−3巻、原敬日記、芦田均マックス・ウェーバービスマルク演説集、鳩山一郎『私の自叙伝』、共立女子の書籍、クーデンホーフ・カレルギー全集、訳書『自由と人生』、自由民主党史、歴代内閣と総理大臣、大型判“Holy Bible”(Reference Dictionary Index)などがずらり。他には、ソ連訪問時にフルシチョフからもらったという、べっこう飴のような色の大きめのペーパーナイフ。76歳の時のデスマスクも、白い石膏で展示。カンボジアエチオピアやイタリアなどからの勲章メダル。一郎氏から薫子さんへの若かりし時のラブレターの一部。岸信介氏による昭和34年3月7日付の正二位の勲章も。
威一郎氏の記念室に入ると、ぐっと時代が下って身近な展示に。戦時中、ミクロネシアのトラック島やパラオ島に出陣する前、家族親族の署名を寄せた日の丸の旗「國報忠盡」。ゴルフ道具一式。府立高校の通知表(意外に全甲ではなく、乙も10ほどあり、席次もトップではない)。女優の司葉子が結婚の条件として「鳩山さんの仲人でなければイヤ」という言付けの手紙。中曽根康弘氏の毛筆の手紙には、「お二人のご令息も国会議員として順調に伸び伸びと発展され、大慶に存じます」という意味の挨拶に始まり、渡辺美智雄氏を支持してほしい旨の依頼。本棚には、東大百年史、昭和の財政史、日本国憲法民法など有斐閣の専門書が多く、その他には、ドストエフスキー全集、ソ連の写真集などもありました。
二階の小ホールのような洋間には、邦夫氏の奥様の画いた絵が二枚、飾ってありました。
階下の受付近くに戻ると、春子氏の『我が自叙伝』(1997年復刻版)、邦夫氏の蝶の本(「学術的ではない」と断りながらも、かなり本格的な内容)、『地球に恩返しする』と題されたエコ・トークの本、由起夫氏のフォト・インタビューの本、そして東大現役合格が代々続く見本としての鳩山家の教育指南本(もちろん他人が書いたもの)、幸夫人のお料理の本(これは、どういうわけかボロボロに表紙が破れていた)などがサンプルとして並べてありました。
やっと外へ出て、裏手の庭でペットボトルのお茶を一口飲んでいたら、警備員のおじさんが、こちらを見てにこやかに笑っているのに気づきました。一般観光向けとはいえ、スタッフはよい方たちばかりで、雇う側としても何かとご苦労だろうなあ、と改めて思いました。
お土産には、薫子さんの筆になる「静和」のテレホンカードを買いました。

ここまで来たら、暗くならないうちにお墓参りです。『日記』にも「谷中墓地」のことが何度か出てきたので、何とかなると思い、勇んで出かけました。初めて利用する日暮里駅へ。繊維の町だそうですが、全体として、東京ではこれが初めてというような下町っぽい雰囲気で、霊園も駅からすぐなのですが、昨年11月に訪れた多磨霊園よりは(参照:2009年11月24日付「ユーリの部屋」)、遙かに小さな場所でした。鳩山会館から、迷わず到着したつもりだったのに、電車ではどういうわけか1時間以上かかり、近くに花屋さんもなく、もうすぐ日が暮れそうなのに、文字通り駅名のようになったら気味悪くてイヤだなあ、と。多摩霊園より狭いなら、早足で急げば見つかるかなあ、と中をグルグル20分ぐらい歩いてみたものの、どうにもこうにも....。場所としては、雑誌の写真などで、由起夫氏夫妻や邦夫氏がお墓の前で手を合わせて拝んでいる姿を見ていたので、すぐわかるものと思い込んでいたのが間違いでした。
(まあ、今回はここまで来たということにして、次回は場所をもっと確かめてから来ようかな)と、沈みつつある太陽を気にしながら外の道を歩いていたら、ふと「霊園管理事務所」の看板が目の前に。これはいい、とドアを開けようとすると、ちょうど閉まる時刻が5時15分。時計を見ると、まさにその時間。偶然にしてはできすぎている、とまたもや嬉しくなって、中に入り、おじさんに「著名人リストをください」。元気のなさそうな声でぼそっと「寄付金を箱に入れて」と言われたので多磨霊園の時には、花屋さんでちゃっかり100円だったことを思い出し、迷わず同額に。
著名人リストには墓地の住所が書いてあり、地図も看板で出ているので、後は早いこと早いこと。15分も歩けば、すぐに見つかりました。犬の散歩中の人が数名いたのも、ありがたいことでした。
横山大観氏のお隣で、確かに敷地が広く、通りに面した場所にありましたが、(ふうん、これが雑誌の写真に撮られていた場所なのか)と、驚きました。(私なんかがここへ来てもいいのか、場違いも甚だしい)とは思いましたが、これもそれも、薫子さんあってのこと。
勝手に想像するに、もしかしたら、自民党を離れる決心をされた邦夫氏が二、三日前ぐらいにここへ来られてお供えされたのかもしれない、というような風情の榊と、(神道ということにはなっているものの)数日たったような仏花用(?)の鮮やかな色のお花がありましたが、風向きで斜めになったり傾いたりしていたので、僭越ながらまっすぐに直させていただきました。お墓石はきれいで、もちろん一般よりはかなり大きいものの、特に家柄を誇示するような凝ったものでもなく、神道名が刻まれているでもありませんでした。和夫・春子夫妻の前の代からあり、一郎氏と「妻 薫」が中央に位置していて、目立ちました。
矢内原忠雄先生の時にも(もし、東大関係者がお墓参りで列をなしていたら、どう挨拶しようか)と心配していましたが、全くの杞憂。お墓探しに二時間も歩き回らなければならないほど、誰もいませんでした。それにも懲りず、この度も、(もしかしたら、現役総理や邦夫氏のことで、マスコミの人達が張り込んでいたらどうしよう)とビクビク。「絵が好きで横山大観氏のお墓参りに来たんです」と言い訳でもしようかと考えていましたが、これまた人っ子ひとりいませんでした。帰宅後、主人いわく「お墓の前なんかで張り込むジャーナリストなんていないよ」と笑うばかり。そんなものでしょうかねぇ。
谷中霊園には、上田敏(英・仏文学者)、佐々木信綱(歌人)、ニコライ(ロシア正教大主教)、宮城道雄(箏検校)、上田萬年(国文学者)、圓地文子(小説家)、渋沢栄一(社会事業家)などのお墓もあるそうです。その後の朝日新聞天声人語』(2010年3月21日付)には、最近は有名人のお墓巡りをすることが流行っているという話が掲載されていました。期せずして、私も流行に乗っているのかもしれませんね。
とにかく、一日で一通りの経験をさせていただき、記念すべき思い出となりました。関係者各位には、御礼申し上げます。