ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シンポ・鳩山会館・谷中霊園 (4)

ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(1859-1906)と結婚して7人の子を産み育てた青山みつ(クーデンホーフ光子)(1874-1941)による口述筆記『クーデンホーフ光子の手記』を読みました(シュミット村木眞寿美(編訳)河出書房新社1998))。
昨日、「友愛ボート」や「友愛の海」が、去る3月17日の鳩山由紀夫総理のスピーチで出たことを記しました。そうなると当然、「友愛思想」なるものの源流を理解する必要に迫られるわけですが、2010年3月24日付「ユーリの部屋」で示した資料リストだけでは、今なら誰でも知っている程度のことしかわかりません。パソコン検索してみると、なんと上記の本が近所の図書館にも所蔵されていることが判明したため、早速借りて、夕方になった今、読み終わったところです。
それにしても、明治時代というのは、とてつもなくエネルギーに満ちたすごい時代だったなあ、と改めて思います。牛込納戸町の大地主で油商と骨董商を営む青山喜八と津禰との間に生まれた三女のミツが、オーストリア・ハンガリー帝国の貴族外交官と結婚、青山家のお墓は三軒茶屋の正連寺にあるそうですが、彼女は日本に葬られることなく、異国の地で生涯を終えます。単なる異文化のみならず、欧州貴族の系譜に連なることになった日本女性としては、並大抵の覚悟ではなかったはずです。
日本人と西洋貴族の初の国際結婚として知られているそうですが、それ以上に銘記すべきなのが、この光子さんのご次男であるリヒャルト栄次郎クーデンホーフ・カレルギー伯爵(1894−1972)が「欧州連合の父」として知られ、‘Brüderlichkeit’概念を提唱されたということです。これが、英語を通して、鳩山一郎氏によって「友愛」と訳され、孫兄弟の政治思想にも引き継がれています。
薫子さんが1967年頃、NHKテレビで、リヒャルト栄次郎クーデンホーフ・カレルギー伯爵と対談された記録が、『若い女性のために』に掲載されていました。特に特記するような内容ではなく、どちらかといえば一般向けの紹介とご挨拶程度のものでしたが、こういう概念にいち早く目を留められた一郎氏とそれを支えた薫子さんの役割には、確かに瞠目べきものがあります。
ただ、概念そのものに異議はなくとも、その実現へ向けての具体策はとなると、時代背景が異なった今、なかなか難しい要素を含んでいると思います。
シンポジウムでパネリスト語られたことは、いずれテレビ放映される予定なので、メモをとりながら聞いたものの、その詳細を記すことはしません。一点だけ強調したいのは、予想していたよりは、「友愛思想」の応用形なのであろう「東アジア共同体」を構築する際の問題点を、鋭く指摘する発言があったことです。どちらかと言えば、総理にお追従するような建前発言が続くのではないかと懸念していたのですが、必ずしもそうではありませんでした。
それにしても、政権が交代すると、一国民としても、新聞やテレビの報道やツィッターだけであれこれ反応するのでは不充分で、いろいろと勉強しなければならないことが多く、正直なところ、大変です。
いかに自分がこの方面に関して無知だったかということの証左でもありますが、ある程度、本が自由に読める私であっても、一通り基本的なことを理解しようとするだけでも結構大変なのに、日々の仕事や子育てなどで忙しく暮らしている人々なら、一体、どうすればよいのでしょうか。
一郎氏や薫子さんの思想的基盤として、『鳩山一郎・薫日記』()()を読んでみてわかったのが、確かに若い頃は、西洋文化の吸収のためにか、教会や宣教師のお世話になっていて、讃美歌を定期的に家で歌っていたことも事実ではあっても、どちらかといえば、いわゆる新興宗教に数えられるのであろう「生長の家」との結びつきが割合にあったらしいことです。「谷口」氏の名前や「白鳩会」のことなどが、特に日記下巻にはよく出てきます。実際、鳩山会館を訪れたところ、観光バスが二台ほど止まっていて、「生長の家」の表示があり、その関係者が団体客として来ているらしいことがわかりました。
また、鹿島研究出版会から著作が出ているので調べてみたところ、東京の八重洲ブックセンターと系列上のつながりがあるとも、わかりました。
いずれにしても、有名な家系というのは、建物としての家のみならず、その家族の維持だけでも大変で、名がなくとも自由に生きられる庶民の方が、遙かに幸せかもしれないとも思います。